Profile
波瀾万丈激動渦巻く
兜町の歴史を綴る武将達
株屋小僧の系図 戦中時代 東京大空襲
終戦直後の日本経済と兜町 鼻垂れる小僧と終戦直後の世相
証券取引所の再開 株屋に飛び込んだ餓鬼大将
場立ち時代と勤労学生 兜町柔道界の歴史
大光・竜ケ崎証券の破綻 名門『入丸』の倒産
東洋精糖事件 藍澤弥八東証理事長
はじめに
兜町の象徴だった証券取引所の株式売買立合場が、平成十一年四月、百二十年の歴史に幕を閉じた。閉鎖の理由は売買システム取引銘柄の増大に伴って、立会い銘柄は徐々に減少し、特に前年三月には全銘柄をシステム取引の対象にした事で、立会場の取引は全体の六%程度に低下し、一方維持費は年間三億円を突破しビックバン(金融大改革)の波による市場間競争激化に備えてのコスト引き下げの為の処置と云うのであった。
此の立合場の閉場はGHQ指令の空白時代から再開された昭和二十四年五月十六日以来幾多の買い占め劇や莫大な資産を稼ぎ出す人や、判断の失敗で逃げ出し自殺した人等など多くの生臭いドラマが繰り広げられて来た所で、関係者を始めとし投資家の方々からも時代の流れとは云え強く惜しまれ寂しがられ、兜町独特の手サインで株式売買をしていた最高時、約一千五百人いた “場立ち達は完全に姿を消してしまった。一時、空き家になった1800平方メ-トルの空間面積跡地だけがポッンと残り、再利用案にはビャホ-ルかダンホ-ルにしたらどうかと耳を疑う“ 珍案” まで飛び出した結果、現在既にテレビや広報等でお馴染みの近代設備機能を整えた新世紀のシンボル・アプローチマーケットセンター “ 東証アローズ” として姿を顕している。
然し、若き時代に場立ちをしていた自分にとって何か空虚しい感じと今静かに目を閉じると当時の想い出が走馬灯のごとく蘇って来る。此の修羅場の戦場の屋根の下に集まる場立ち達は仕事から離れると競争相手の敵味方ではなく不思議な連帯意識が沸き親子兄弟意識に変わり不思議なパイプに繋がれた同夢関係が築かれいた所でもあった。
そして古きしきたりに似た封建意識と先輩後輩の規律や人情入り乱れ、 駆け引きも盛んな貪欲な仕手戦の戦略が蠢いていた魂が鎮座していた所でもあった。此処に我が兜町人生の半世紀を過ごした歴史の中、兜町独特の生活風習や蠢いた多くの偉人・奇人・変人・凡人の仲間たちと記憶を基に顧り見て知られざる秘話も交えて語らせて戴き、後世の証券マンの語り種となる事を願い、また一般投資家には兜町の貪欲な世界の陰に潜んだ多くの千軍万馬の武将達の悲喜劇のドラマを餓鬼大将の人生を通じて知って戴き何にかを感じて戴ければ幸いである。
文中、小生の恥部も懺悔を込めて筆にし、登場するお方の敬称を略し、あえて齟齬を用い感情表現を強調し、傷つき顰蹙怒り心頭に達する御仁も有るや否や?此れ筆の戯れとおぼしめし、赤裸々な部分は仮想の人物をドキメントなドラマチック描写で書いたものと寛大な気持ちで乱文・雑筆、お許し戴き、ご笑読下さる事を願うと同時に、発刊に際して多数の情報資料を揃え、ご尽力を賜った諸先輩方や友人に畏敬の念を捧げ感謝を述べる者である。
株屋小僧の系図
昔々信濃の国に起こりし豪族で武田氏より分れた家系で安濃郡の城、日岐領主の時の肥後守も先祖だった。日置六郷三千貫の領主もいて筑波郡下生坂の城主は天文十八年(西暦1532~1554)四月二十日の合戦に破れ落城して後、病に倒れた者も先祖にいた。
丸山備前守と云う大剛の高名ありし者は幾多の合戦に出陣し討ち死にした者も先祖なり。鎌倉時代の初期(建久三年) 丸山九太夫は源頼朝の富士狩りに従った弓術の名手であった。江戸時代の丸山雲平可澄は水戸光圀に仕えて大日本史編略の一人。肥後の国、丸山宇治は楢吉城の老臣として重責を果たした人物。上野の国、丸山城の民部太夫も先祖なり。
人皇五十六代の帝、 清和天皇、貞純親王、経基、義光、信時、丸山弾正忠清昌と続く血統で、1800年代に至って會祖爺さんあたりから越後に勢力を伸ばし村会議員・村長等富豪名家の家系であった。此れ伝来残史家系圖資料なるが何処迄其の真偽の程は判らぬが、実父(丸山七二)は新潟県中蒲原郡金津村大字西島の村長の長男 (明治25年生まれ)で生家の扉は重厚な凝った造りは「県一番」の折り紙が付き自慢の種だった。
母親は同県同郡大字程島の土管家の四女で、 親父と知り合ったきっかけは聞き損なったが、二人一緒に田舎に見切りを付け、東京に夢を抱き上京し、荒川区三河島の商店街、正庭通りに『寶玉堂』の看板を掲げ時計店を開業した。
結婚の入籍は戸籍では大正四年、長男の誕生と同じ年なので今式の出来ちゃった結婚。長男『繁雄』は軍隊で金鵄勲章(功七等級)・白実葉章(勲八等)・支那事変従軍勲章を授章し、女優吉永小百合の恩師で今なおピンピンしている。二男『美信』は近衛師団(騎兵隊)伍長で誉れ高い儀仗兵で嫁『美江』の父が池田勝治、母が神保トヨと戸籍父母姓が違うのは、池田財閥の御曹司、勝治と赤坂花柳界トヨの愛の結晶が『美江』である。美信・美江の婚姻届日が昭和二〇年九月二五日、其の子『信子』(若柳流名取・日本舞踊研究家)が、昭和二十年十月八日の誕生なので此れも『出来ちゃつた結婚』となる。三男『次三郎』は入隊まもない志願兵で、其の子『典子』も日本舞踊の名取。丸山七二(父親)がどうして時計店を開業し時計修理技術を習得したかは知らぬが、大正四年に親父は家督相続を放棄し、東京で世帯をもった事だけは戸籍上ではっきりしている。
長男を筆頭に末っ子の小生を含めて戸籍上は五男四女を産み落としているが大正時代の流行病で、生後二ケ月・生後二年・生後一年であっけなくこの世を去った三人がいたのだが、六人兄弟で世間は通用していた。事実、戸籍簿謄本記載には長女が二人、次女が二人記載され、大正時代の戸籍の記載はかなり役所のいい加減だった事が伺われる。
加えて実際には小生のすぐ上に戸籍には記載されていないが男が一人いて実質十人の子宝家族である。此のすぐ上の兄は出産と同時に、子宝に恵まれぬ遠縁の裕福な豆腐屋の実の出生児として貰われ、戸籍には記載が無く、何不自由の無い恵まれた一人っ子の環境に収まっている。本人は薄々その秘密を知りながら惚け、優雅なやりたい放題の人生を桜花している。お互いに此の秘密には触れずにいるのが幸せとばかりに交流はあるものの今尚、この事を口にしないようにしている。大正・昭和と混乱のドサクサにはこんな不思議な、いい加減な事も結構あったのだ。これから話を進めさせて戴く前に先ずくだらぬ餓鬼大将のいい加減な家系圖を此処に記させて戴いた。
戦中期時代
昭和十年に時計屋の伜として生まれた翌年、雪の降る中、軍部の対立から陸軍の皇道派青年将校の首相官邸、警視庁などを襲撃し、岡田啓介首相の秘書を首相と勘違いし殺害し、内務大臣斎藤実、大蔵大臣 高橋是清、教育総監 渡辺錠太郎をも殺害した二・二六事件(昭和十一年二月二十六日)が起こり、暗い世相は一国を覆い、関東軍が北京盧溝橋で中国軍と衝突(昭和十二年七月七日)して支那事変が勃発し、 主婦からモダンダンサーまで女性の軍国調姿の制服が流行し、第一次近衛内閣が誕生。南京の陥落(十二年十二月)は相場師や仕手筋にとって格好の投機の材料出現で波乱のシナリオが出来上がっていた。
中でも米屋の小僧から相場の神様と云われた山崎種二は昭和八年の百万トンを越すコメ大豊作で米の価額は大暴落し、価額安定政策『国の米穀買い上げ政策の要請』の情報をいち早く入取し、東京の貸し倉庫を片ぱしから押さえ、産地の新米二百万俵を安値で叩き買い集め、政策決定後に政府に高値で買い取らせ、一躍大儲けし、回米問屋の基礎を築き華々しく証券業界に進出した。
二・二六事件(昭和11年)勃発直前に新東株のカラ売りを大量に仕掛けていた山種は事件勃発に伴い、株式取引所の機能は一斉休会に突入し、三月九日には低金利政策と増税が発表された為、カラ売り予想は見事に的中し、此処でもしこたま儲け麹町三番町に超豪邸を新築し、 同時に、 兜町に五階建て本社ビルを新築した。 余りにも見事にカラ売りで大儲けした為、山種に対して「反乱軍と通じている」と 憲兵隊に引っ張られたのもこの頃である。二・二六事件から日中戦争・支那事変に進み、国家総動員法が制定され、国中騒然とし、国際情勢は緊迫の頃、当然ながら小生は母親の懐に抱かれた赤ん坊のこと、当時の記憶は全くなく我れ関せず末っ子の特権はただスクスクと我が儘いっぱいに可愛がられ育てられた結果は手に負えない餓鬼大将として成長していたのだ。幼稚園時代からの記憶が心に残っているので、話しはここから始めさせて戴きま~す。
学習院幼稚園と同じ帽子をかぶり、何時も隣の可愛いさだ子ちゃんと手をつなぎ常磐線ガード下を潜った六百メートル先の幼稚園に行くのが楽しみだった。たまに登園途中に、幼稚園に行けない年上の悪ガキがいて、意地悪をするので手前の線路の土手に上がって、持参のお弁当とおやつを平らげUターンして帰る事もあったが、それを知った親父は 「意地悪されたら逃げて帰ってくるなとハッパをかけられ、翌日、早速こん棒を持って悪ガキをぶんなぐり幼稚園に通った事もあった。花火を一度に何本も火を付け火傷し防火用水に手をつっ込み指五本水ぶくれでくっつき離れなくなった事もあった。
親に叱られ火鉢の上のヤカンを蹴飛ばし左腕ひじに大火傷した事もあった。悪戯を咎められると、わが家の時計ウインドの特大ケースのガラスに石をぶっつけ、陳列を壊した事もあった。国民小学校では、悪戯好きの餓鬼大将は結構人気があり、廊下や時計台の下に立たされると、仲の良い三人も一緒に立ってくれ得意がっていた。負けず嫌いの口うるさい頑固親父は、若いころからチョビ髭を生やし、戦時中でも背広にネクタイ姿と大変お洒落で大酒飲み、時計屋の大きな看板には、英語文字を堂々と掲げ、時計・メガネは売るが、修理代をとらない変わった商売人だった。お袋・長男・次男・三男への時計修理技術の教育は、アメと鞭で、何時も厳しく教えていた。アメは分解した時計を組み立てると小遣い、組立て順を間違えると拳骨・・・ この使い分けは技術の習得に充分役立ち、覚えも早かったと兄達は語っていた。
東京大空襲
東京大空襲(20・3・10)で住み慣れた 『寶玉堂』 時計店 本店は焼け落ち、足立区北千住の支店も消失し、既に満州で、名誉の負傷から 金鵄勲章 を貰った長兄(大正四年生れ)と近衛師団騎兵隊伍長だった羽振りの良い二兄(大正6年生れ)と、新兵の三兄(大正13年生れ) 三人共々兵役から帰還し、 分家独立時計店で開業し、空襲大火災をまぬがれた別支店舗に兄たちは残る事になり、父母(明治25年・30年)長女(大正15年) 次女(昭和5年)と 餓鬼大将の五人は、新潟の父方の本家に疎開した。餓鬼大将は田舎でも餓鬼大将で、イナゴ取り、魚釣り、蝉捕り、川遊び等、勉強そっちのけで、東京のぼっちゃまが中心で、遊びまくっていた。学校相撲は何時もチャンピオンで、クラスの先頭に立ち、算数は得意だった。楽しく懐かしい思い出はいっぱいあり忘れる事が出来ない。
昭和二十年八月十五日、 田舎の集会所で聞いた玉音放送は、ピーピーと雑音混じりで訳が解らず、無条件降伏の終戦(敗戦)宣言をを誰も信じなかった。数日たってから親父は、それを、いちはやく理解し、即刻、東京に帰ると言い出し東京下谷區竹町の賑やかな街、新東京映画館通りで既に時計店を戦前から開業していた二兄の家に父母を含めた五人が上京し、小さな二階建の一軒家に三世帯、十人家族の生活が始まった。
終戦直後の日本経済と兜町
終戦直後の日本経済はほとんど機能を失い、軍需工場に働く四百万人は巷にほうり出され、七百万人の復員兵士はつく職も無く、悪性インフレが襲いかかり、ヤミ取引が横行し、銀行貸し付け金は回収不能で支払いも出来ず、全ての企業は破産状態に陥っていた為、混乱経済は深刻そのものであった。; 兜町の株式立合場はGHQ指令で閉鎖(昭和二十年九月から昭和二十四年五月十五日)されていた空白時代で復員引揚者百五十万人に交じって、兜町関係の引揚者は株式関係の仕事は無くヤミ物資の横流しや、海産物を売り歩かされたり、新橋のヤミ市で古靴を売ったり、日証館内で古着交換会を開き、古着物の販売をしたり、宝クジを売り歩く証券会社もあったのだ。
坂井市太郎は満州に出兵した引揚者の一人である。インテリ相場師と云われながら相場に敗れ青酸カリで劇的な服毒自殺を計った太田収(昭和十年山一証券社長 就任)の下で市場立会人(場立ち)をしていた気骨のある人物で通称“市チャン" と呼ばれていた。市チャンの凄腕は株式取引所が閉鎖され、株式売買が停止されていた時期、 極度のインフレ進行中、手持ち証券の現金化を望む人と、投資対象として株式売買を求める人が、 兜町に集まり出して来たのに目をつけ、売り注文を取っては兜町の中を飛び回り、 買い手を探し、始めは顔見知りの仲間と、もぐり売買取引で値鞘を稼ぎ、次第にそれに準じた仲間がどんどん集まり出し、路上や地下室の一室では、実質的な株取引行為が、公然と自然発生的に行われだしてきた。そのきっかけの役割を果たし、一段と躍動させた男の一人が市チャンで “ランニングブローカー(略称ランプロ) と云われていた。ランブロの活躍は、何んと云っても獅子文六 “大番の主人公となった合同証券 佐藤和三郎社長(通称ブーチャン)の所で、出世頭と云われた通称“茂ドン『平林茂三郎』の存在を語らぬわけにはいかない。 体は大きく、ひと目見て如何にも兜町の相場師の風格を持っ茂ドンは、どんな人にも威張らず、見下ださず、腰の低くさは人一倍で、頭を下げての挨拶は、挨拶を交わす人達も戸惑うぐらい、礼儀正しく、そして風格と実力を兼ね備えた大人物で仲間の悪口を一切云ったことがない生粋の正しく本物の武将であった。
大手客からの約定は桁が違っていた。 飛ぶ鳥落とす勢いの 茂ドン は当然大金をかき集め、銀座に太平証券 と云う証券会社を開業し、南千住に高級料亭を妾にやらせ、 兜町の評判は “偉人の武将” と呼ばれるようになっていた。この集団取引の隆盛の陰には多くの奇人・変人・偉人が入り交じり其の中、何時しか自然発生的なヤミ売買行為が発生したのである。
そこには価額の統一性がまだ無い為、凄腕の武将と、 間抜けな馬鹿な藤四郎達との違いは歴然と現れひねられる (損をさせられる) 輩とひねる(儲ける)輩の駆け引きも盛んであった。此れではいけないと、公平な価額形成の場を設けねばと実栄会 (才取り) の矢島房次氏・香取次郎氏・実物会(場立ちの会)では、野村証券の辻村寅次郎・山丸証券の富田健一・山一証券の杉村昇・日興証券の藤田稔 各氏などが、積極的に各社に説得に回り、場所を取引所前、日証館の二階の実栄会で行う事にした。情報交換も活発に動き出し次第に、集団取引の場所も路上から実栄会に移り、受け渡し方法等の制度や、 売買規則の取り決めをし、 株式の流通をGHQの目を盗みながら法制化させ、実質的な影の証券取引の誕生の芽が生えて来た。
陰の立役者は勿論、抜け目なく時の流れを掴み、 客の要求を満たすため道端で売買をいち早く始め、群がり出した千軍万馬の武将達 “市チャン”“茂ドン” 達の活躍があって動き出した集団取引の開始であった。 外部から見ると此の兜町(シマ)で活躍する全員が兜町の偉人・賢人・怪物・変人に見えていたのかも知れない。
鼻垂れ小僧と終戦後の世相
此のころはまだまだ小生は時計屋の鼻たれ小僧の餓鬼大将宜しく混乱世相の中、ジープに乗ったアメリカ兵が拙宅の時計屋に時計の修理に来てはチョコやガムをプレゼントして呉れた事を喜び、焼け跡から赤銅線や鉛を拾い集めたり、簡単な時計修理を自ら進んでやったり、親孝行をするのだと野菜の買出しに行っては小使いを稼ぎ出し、其のお金で友達に御馳走したり、当時はまだまだ高価な自転車を購入し得意がっていた時代であった。
小学校の校庭で真冬の休み時間に氷の張ったプールに野球ポールが落ちてしまつたので飛び込んで拾い上げ一躍有名になった事もあった。
本当に始末の悪いガキ大将だったのだ。現在もうだつのあがらないのは、 この頃の悪い性格が未だ抜け切らぬ為であろうか。 終戦直後の繁華街は復興景気も手伝って本当に凄まじかった。 竹町の佐竹商店街・三味線掘り・上野広小路は賑やかな街でアメ横(御徒町)はもっと凄かった。芝居小屋や映画館がひしめく下谷區竹町の我が家は、戦火を逃れた家屋で、 裏側一帯は焼け野原で隅田川が一目で見えていた。ぼうぼうと伸びた焼け野原には雑草が生い茂り、所々には肥え溜まりがあり、焼け野原での遊びで肥溜めに落っこちた仲間もいた。浅草の映画館の入場料三円で映画館通りはごった返して歩けぬぐらいの混雑で、エノケン・金語楼・横山エンタツの喜劇の絶頂期だった。
町内では地元の叔父さんと一緒に我が家の前に、 始めはミカン箱を置き、 いち早くラジオ体操復活運動を開始し、町会の後押しも加わってラジオ体操を復活させた。その後大勢集まり出して体操会場を竹町公園に移し、其の功労を当時の内山下谷區長(現在の台東区)から賞状を受賞し、読売新聞(当時は四ページ刷り)の紙面に、 体操台で体操をする小生を中心に千人程集まり体操をしている写真が半切いっぱいに掲載された事もあった。町会青年部でも役員として活躍し、ソロバン塾の先生とは三級検定試験の合否の賭けで月謝一年分を勝利した事もあった。
中学校の校舎は西町校舎から御徒町校舎に移り、 竹の台女子中学校と男子西町中学校(後の東叡中学校・現御徒町中学)の混合校舎で、異性を意識しだしたのが此の頃だった。陰毛が顔を出し始めて教室で仲間同士お互いの長さを競い合った思春期は恐らく皆似たり寄ったりの行為か純情そのものだったと思っている。野球は捕手で上野の山の区営グランドを優先的に使用させてもらい練習に励んだ。近所の小さい子を連れての自転車遊びは池の端・上野公園・東京大学の三四郎池が遊び場のコース。伝書鳩は最高時三十羽、ヒヨコは百羽いっぺんに買ってお袋に こ・て・ん・こ・て・ん に怒られた事があった。
其の三ッ日後には全部野良ネコに引っ掻かかれて殺されてしまった時も再び コ・テ・ン・コ・テ・ンに怒られた。 それ以来、いまでも猫は大嫌いで好きになれないので~す。
喧嘩シャモを飼っていた時はがき大将の闘争意識の血潮が騒ぎ、 他流試合をさせる為のトレーニングを毎日欠かさず行い、日本手ぬぐいを喉首に突っ込み、 喉首を少しでも太くさせ、 喧嘩の最中に、相手の羽根が喉首に、少しぐらい入っても、びくともしない強靭な一流軍鶏に仕立てる為に、高価なマムシを与えたり、 日本酒を口に含んでは顔に吹きかけ、真っ赤に紅潮させ、姿勢にも常に気合の入をいれて、遠征試合に度々出掛けては賭け試合にも参加し、賞金を稼ぎ、此処でも天下御免のやりたい放題の日々を送っていた。
証券取引所の再開
昭和二十年八月十五日、玉音放送は国中混乱と虚脱感充満し、東京は一面焼け跡だらけの廃墟と化し、日本経済は殆ど機能を失い、軍需工場の停止は四百万人の職を奪い、七百五十万人の復員兵士、百五十万人と云われた引揚者の働き口は皆無。加えて未曾有の凶作。GHQ(占領軍司令部)は日本経済の民主化と賠償支払い命令を発し、財閥解体、農地改革、労働組合運動の公認、財閥リーダーの追放、独禁法の制定と米国サイドの基本方針を打ち出し強烈な圧力をかけてきた。国内の経済は極度のインフレが進みヤミ屋が横行し、食料不足は極限に達し、二十一年二月、旧通貨の封鎖と新円が発行され、一ヶ月五百円の困窮生活の強要と混乱は深まるばかりだった。
すでに証券取引所は終戦前の八月十日に閉鎖されていたが取引所が閉鎖されインフレは高進しヤミ取引が横行する中、先に述べた通り証券株そのものの流通はGHQの閉鎖指令や大蔵省の目を盗み、密かに集団取引と云うヤミ売買取引として兜町の路上や証券会社の地下室で行われていた。そして何故かGHQも大蔵省も黙認していた。証券関係者は封鎖預金取引で「株式払い込み・株式買い入れ」の出来る様、大蔵省へ強く働きかけ新円・旧円切り替えによる株式流通封鎖預金取引の円滑化の申し入れをし簡単に許可され合法化された。
知恵者は此のどさくさに紛れて新旧券の円売買を起用に動かし新興成り金になった者が出たり、金融緊急処置令違反容疑で警視庁の調査の騒動が起こり、結果、封鎖預金取引禁止令の勧告で決着が付き、株式本来の流通市場の売買は必然的に新たな展開を迎えたのだ。
この頃のヤミ取引(集団売買)の最高時は出来高六億株に達していたのだから驚きだ。そしてGHQ再開許可を二十四年二月に取りつけ待望の市場取引再開に漕ぎつけた。此の頃の混乱を整備し、戦後の証券取引所が再開されたのが昭和二十四年五月十六日。GHQの重圧の難関を乗り越えての船出である。
再開当時はまだ日々の株価も一部の新聞にしか掲載されず終値のみで、大衆投資家なんて言葉は存在せず、株価が百円もしている株式が額面五十円の有償増資発行しても失権株が出た時代。仕手筋・地場筋・買占屋・株屋の大将(証券会社社長個人の手張り)と群がるチョウチン筋(株屋の従業員や山っ気の多い旦那衆)そして事業会社等が参加しての株価形成が幅を利かせ、投機相場が中心と云っても過言ではなかった頃で、株券の受渡しも決まりがあっても守られず銘柄によっては数カ月も受渡しが行われない取引もあり、足(損金)を出してはペコンと頭を下げれば親分肌の人がいて面倒を見てくれた時代だった。市チャンは昭和恐慌の暴落で相場の失敗で大損を出し当時所属していた会社の大将に穴(損金)を拭いてもらった事があったと話しをしてくれた事があったが、戦後のヤミ取引と新円切り替えでしこたま儲け再開直後に若手の失敗のケツ(損金)の面倒を何人も見てやったと一般世間の常識では全く考えられない相場の世界の摩訶不思議な親分子分の関係が存在していた所だった。
株屋に飛び込んだ餓鬼大将
小生が兜町に飛び込んだのが昭和二十六年の春。一光証券から金山証券に名称変更した直後、呼称は証券会社だが一般的にはまだ株屋と云われていた時代にランブロの市チャンがいた。社長を含めて総勢十八名の会社)だった。 証券取引所の株式立会場が再開された二年後の信用取引制度が発足した時である高校進学を志したが遊び熱心だった小生は見事に高校の入学試験に失敗し、その時のショックは深刻で、初めて味わった挫折感に打ちのめされた。
余儀なく夜間学校を選択し夜学生生活をする羽目になった。昼遊んでいてはもったいないから「金儲けが出来る株屋の小僧になったら・・・」 と、 姉の勧めで子供ながらも時計屋商人の小僧の決意は“ヨシ株屋で金儲けだ”と気分一新、決意も新たに金山証券会社へ入社したのが社会人の第一歩である。進学受験失敗の挫折感を抱き(いだき)ながらも 欲望に夢を膨らませ株屋人生を選んだ小生は、まず挫折感を払拭させる為の自問自答の慰めの結論 “俺は昼間は経済のバロメーターと云われる兜町で働き夜は勉強に励む” “進学した仲間は勉強しているが夜はきっと遊んでいる筈だ必ず其の仲間とは差を付けてやると我が心に云い聞かせていた。
初めはお茶くみから黒板書きの仕事であった。 初めての仕事は先輩からは優しく励まされ楽しくてしょうがなかった。しかし相場の値動に変動がなくなると決まって眠くなり黒板台から転げ落ちたこともあったが、 度近眼の吉沢君が入社して来たのをきっかけに間もなく場立ちの辞令を貰い、夢と希望を秘め、揃いの制服に会社屋号のバッチを胸に付け、注文伝票を持って「証券取引市場」に入った。その時の緊張感、それは “餓鬼大将が株大将” なんて自惚(うぬぼれ)た誇りと自信を秘め 「他社の場立ちに嘗められるな」と市チャンに励まされ、「まず仕事を覚える前に女を覚えろ」と 場立ちの初仕事の夜、歓楽街の『洲崎パラダイス』に連れて行かれた事は脳裏から永遠に忘れる事は出来ない・・・ 。
小太り年増女の臍の下の穴をまさぐり抱かれ童貞を捧げた事は今でも強烈に目に焼き付き忘れられない。 「サーこっちえおいでよ~」 結構明るい部屋の布団に横たわるすっぽんぽんになった年増女が「いい男だね・・・」なんてお世辞言葉で招く姿にもはや野獣と化した小生の目には年は関係なかった。一気にスボンを脱ぎ捨て飛びかかっていったが「慌てちゃだめよ」と叱られ、いきなり千擦られて簡単に外に一発完了==いじくり回されたのは小生の方で、手も足も出せず振り回されていたのだ。馴染み客の市チャンが上がる時に「此奴は初めてだから宜しく頼む==」と云っていた為か、年増女は「まかしておきな・・・」とニッコリ大声で市チャンに返事をした事を思いだし、小生へのサービスは懇切丁寧、至れり尽せりだったのだ。 外に一発でまず落ち着かせてから「サーいいよ~」と初めて招かれた本番、注入はバックが簡単と教わりニワトリ見たいに簡単に発射してしまった。息も付けずに再度挑戦は三発目・・・ 立て続けに今度は仰向けで誘う女に覆い被さりカブリ付いていった。
顔を見ると団子鼻の穴からひょこんと鼻毛がのぞきピクピク動いていたのにはびっくりした。 筆下ろしの若き無限のエネルギーを秘めていたのであろう 『ヒェ~・ヒェ~』との叫び声は耳をかすめ、 夢気分は一瞬にして【アッ!!!】と云う間に爆発してしまった。 男の満足感は勝利に酔いしれ夢心地は帰るまで続いた。帰りの==都電に乗り前に座っている女の顔と、帰宅して 「遅かったね~」 と云われたお・ふ・く・ろ・の顔を見た気分は何時もとは違いとても活字では表現は出来ない・・・。
下品な話しはひとまずやめて激動渦巻く波乱万丈の兜町の戦場(株式取引所)に纏(まつ)わる話し、秘話の戯(ざ)れ言を交え綴らせて貰おう。
場立ち時代と勤労学生
入社当時はまだツメ入り姿の学生服で坊主頭、初任給二千八百円。定時制高校の授業料が九十円。吉原のチョンノマ(ショートタイム)は店によっては団体割引や学割もあり、数人複数かけ持ち女の 『廻し』 は更に安かった。小生が行くと決まって 錦之介さ~んと呼んでくれ千円だせばたっぷり楽しんでこれた時代だ。
仕事始めは先にも述べたが相場の仕組みと会社名(銘柄)を短期間で覚え、間もなく度近眼の後輩が入社して来たのを機に、兜町の花形だった市場立会人(場立ち)の昇格はラツキーだった。昔の立合場は番頭・小僧に至るまで木綿の着物に前垂れ掛け姿で株の売買をしていたと聞いて驚いたが、戦後の市場は会社から支給された制服に責任者と一人前と補助員区別の金・白・緑に区別された屋号とコードが書かれたバッチを胸につけ取引所に入った。非会員を除く証券会社が証券取引所に申請許可を出しバッチを付けた場立ち達と取引所の職員、そして実栄会(才取人)を含む約千名前後が集まり、鼻を刺す防腐剤の強い匂いがするが奇麗に掃除された立合場に各社から売買注文伝票を執行するため集まる千軍万馬の武将達の戦場に入り交じり仕事が始まった。
場電(取引市場と証券会社との連絡電話)から発注される株の売買注文を受けて、才取り会員(実栄会)の業種別ポストへの注文出しから、高台(特定・指定ポスト)での取引所職員が仲立つ競り売買・寄り引けにはゲキタクの気配表示の中の手ぶりを交えた抜け商いは超ベテランの芸術的売買が行われていた。
小粒な証券会社の小生は他社の大ベテランに交じってそれをいち早くこなすようになった。 勤労学生の小生は立会いが終わると茅場町から飯田橋まで都電に乗り、席が空いていても決して座る事はせず、本を片手に学校に通った四年間だった。学生服から背広に替え、蝶ネクタイを締め、中折れ帽子をかぶり肩で風切る調子の良い勤労学生に変身したのに半年はかからなかった。夜学の門をくぐるとまず職員室の先生の所え行き、株の新聞を配り株を買うと儲かると熱弁を振るい、先輩から教わった値上がりしそうな株(当時は百株単位)を知らせ、商業学校の先生のせいか以外に興味を示し乗って来たのであっさり五人の先生がお客として登録してくれた。勿論百発百中で儲けさせた先生たちは小生に対して特別扱いで、試験の時は前以て答案用紙と答えをくださり、授業時間は昼間の緊張感からか居眠りの常習犯にもかかわらず大目にみてもらっていた。ただ株をやらない先生からは焼き餅をやかれ居眠り中に白墨の粉で頭を真っ白にされた事も有った。
夜学の校舎は粋な神楽坂の花柳界に位置する津久戸小学校。その二階の教室を借りた都立牛込商業高等学校の景色は窓の下に神楽坂花柳界の町並みが見え、授業中は決まって芸者のつま弾く三味線の音が聞こえてくる洒落た環境だった。「よ~し・・・株で儲けて芸者をあげるぞ・・・」なんて何時も授業中に考え、将来を語る合うライバル意識を常に抱いていた武内明と将来の成功目指して堅い約束をしていた。武内とは常に行動を共に後年富士五湖の一つ河口湖で二千坪のホテルを経営し、バブル時代の盲狂者として大名生活を桜花した仲に発展していった。
生徒会クラブ活動は以外なほど活発で、先輩後輩の交流も盛んだった。夜間勤労学生独特の十歳以上も違った同級生がいたり、経済苦で夜学を選択した勉強好きの者から、筆者みたいに勉強嫌いの進学受験失敗からの落ちこぼれ夜学生活組を選んで来た者も多かった。だが共通していたのが一種独特の野心を抱いていた仲間が揃っていた事だ。勿論筆者は勉強より株での金儲け論を話題に株式投資を勧めに通っていたようだ。
それぞれの人生観を終電近くまで語り合っていた。勤労学生の為、恋愛をする相手も暇もないのか目標を旗印に真面目な人々の集団校でもあった。其の時の友人の一人で豊崎敏雄が終電に乗り遅れ、小生宅に泊まりに来た途中でトラックの人身事故を目撃し、その時はまさか自分の親父が跳ねられていたなど知る由もなく嫌な気持ちを抱きながら素通りし、豊崎と眠りについた明け方、警察から事故の知らせが入り相手の脇見運転で百歳まで生きると豪語していた虚勢高い親父の事故だった事を知らされ、日常うるさい親父と思っていたにもかわらず流石に涙が流れ止まらなかった。
既に此のころになると兜町の先輩に色街と金儲けの秘術も伝授され、手張り(自分の相場)とゲタ履き(値鞘を稼ぎ取る)まで教わり貯金も増え、欲望はムラムラ百万長者の夢燃えたぎっていた時で、株のお客でもある教頭先生から英語・数学・社会・簿記・歴史の各先生達に投機のうま味を教え儲けさせていた毎日、決まって帰りには寿司屋でビールを御馳走になっていた。儲け頭は独身事務長の鴻池先生で儲けた金で神楽坂の一角に売りに出された土地付き家屋を購入し、直後に美人の妻を迎えた。親父の死に目に立ち会った豊崎も夜学卒業と同時に株で儲けた資金で事業を起こし、盤石な環境を築きバブル崩壊後も頑張っている成功者もる。
一部上場のCMKの創始者中山登社長は我らの一年先輩である。事務長の鴻池先生とは一緒に神楽坂の庭園付き料亭(坪二万円)を購入する為に下見した小生は土地で資金を寝かせるより株の売買資金を優先する方を選び土地の値上がりを当時は頭に閃かず飲.む機会が多かったせいか“飲み歩くと金がかかる”と下谷區竹町映画館通りの自宅時計屋を半分改造してオーシャンバー『クラウン』を昭和二十八年に開店した。
今度は昼は兜町、夜は勤労学生とバーテンダーの三足の草鞋(わらじ)生活が始まっていた。兜町から飯田橋までの都電の中で読む本は「カクテル作り」や「徳川家康名言集」「金銭訓」等の本に変わっていた。当然勉強は怠け試験の時は決まって儲けさせた先生からアンチョコ(答案用紙)を数日前に戴き無事卒業した悪党でもあった。
兜町先輩の中には “金が物を言う時は真実は黙り込むと金の力でやりたい放題の事をやり、ずいぶん妻を泣かせた連中も数多くいたが、地味な生真面目な堅いお方はきっとこんな生き方には白目で見られていたに違いない。其れも此れも戦後間もない頃の証券市場は投機色の濃い市場。そこでいっぱしの場立ちと言われその気になればあぶく銭を稼ぐ事が出来た時代に要領良く泳いだからだ。そんな仲間達が多かったのも当然である。小生はは先輩から見ればまだケツの青い勤労学生だったが週末の土曜日には決まって下駄を履いた儲けの利食い金を手に石原裕二郎を真似てカレーライスにビールを飲むのが只一の贅沢で残りは全部貯金をしていた。
だが月給は昭和二十九年夜学を卒業するまで昇給無しの二千八百円の据え置き。社長に昇給の直談判をすると「バカヤロー月給を当てにする奴は出世てきないぞ==・・・金が欲しかったら株で儲けろ==・・・ 」と云われ素直にまともに受け、 手ばり(自己売買)のを実行をし、実際に面白いように儲かったのだから益々仕事が楽しくてしょうがなかった。
その上、 中山仙吉社長は週末になると二階の階段の上から「丸山!!!」と大声で呼び階段の途中まで降りて来ては、決まって小生に 『床屋に行け・・・ 』 といつも千円札を呉れたのも良き時代の兜町である。会社は永代通り都電の茅場町駅前で中島病院の隣角にあり、 山種・大同証券が並び、交差点の向かい角の歩道脇には交番があった。角が偕成証券その隣の甘味処には女優の宮沢りえちゃんに似た可愛いマコちゃんがいた。
取引市場から会社に戻る時間には必ず通りの向こう側からマコちゃんが何故か笑顔で手を振ってくれるようになっていた。 女郎買いしか知らない男の胸はときめき思い切って銀座へ誘うと即座にOKの返事は嬉しかった。約束の三日後に夜学をさぼり、初めて女と銀座に出掛けた気分はルンルン胸はドッキドッキ最高であった。
銀座ビヤホール 「ライオン」 でビールジョッキにクラッカーチーズとウインナーソーセージを食べ、飲んだビールはシビレ~ルほどの美味さで完全にお互いの心は一つ、話し弾み意気投合し、早々酔っ払わないうちにと銀ブラ散歩はいつしか人っ気(ひとけ)のない有楽町数寄屋橋を通り過ぎた人気の無いビジネスビル街に向かい自然と腕を組み薄暗い片隅で抱き合い愛し合うまでには時間はかからなかった。
後で 「わたし貴方にひと目ぼれヨ・・・」 と告白され “俺もまんざらでもないぞと自惚れ愛し続けて以来二年間に二回の水子はさぞかし彼女の母体を痛めた事であろう事かと罪の意識は今でも心を痛め、或る日突然姿を消した彼女に若し再開できたら十分に償ないをせねばと消息不明の安否を気遣い、今でも反省の日々を送っている。
趣味は写真撮影と柔道にも熱中し、業界親睦団体の 『恊和会』 に所属し、世話役委員にもなり盛んに活動していた。写真の方は、十八番の美人モデルを連れての旅行を兼ねた月例ヌード撮影会。柔道の方は、週三回取引所ドーム七階『士道館』道場で稽古に励み、年数回、国税庁・所轄警察署・企業団体・東西対抗等の親睦試合を行い、関係団体との交流を計っていた。師範教師は高橋徳治郎八段(山文証券)で質実剛健、大変人望の高い師範で講道館の重鎮でもあった。小生に対してはまだまだ未熟と有段者の資格を取らせて下さらず業を煮やし小生得意の買収作戦を挙行した。自営のホームバーでの接待作戦は見事に功を制し得て其の後にやっと実力を認めて戴き、待望の講道館柔道初段免許を授かった。講道館入門に際しての保証人は正会員協会の当時六段で常務理事の金原一郎先生がなって下さり無事講道館初段の免状を手にした時は一層の精進を誓ったものだ。
以来、柔道の修業に励みその功績大なるによってと二段・三段を取得し現在もたまには後輩育成に精進している。取引所士道館道場高橋徳二郎 初代師範のご逝去により正会員協会の専務理事に昇格していた金原一郎先生は既に講道館柔道八段と成られ、二代目師範として遺志を継がれ兜町柔道の発展と育成そして対外柔道との交流発展と親睦にも多大の功績を残された事は唯々尊敬と感謝の念で一杯である。
金原先生の兜町に置けるご活躍は全ての証券会社の要を司る重責の仕事を担い尽くせぬ偉業は証券史に記され称えられている。柔道を通じて人間の道をご指導下ったのも先生である。
兜町柔道界の歴史
兜町柔道部の歴史は昭和六年十月東京株式取引所新館落成に伴い、当時の理事長岡崎國臣氏 が同取引所七階に 『東株士道館道場』 と命名掲額され、柔剣道の道場として開設され、講道館に於いても其の名を知られた兜町の重鎮で当時沼間商店におられた質実剛健で大変人望高かった今は亡き故高橋徳治郎先生を初代師範 に仰ぎ、有段者七十六名が名を連ね以来、柔道の志しを抱く幾多の証券マンが集い『精力・善用・自他共栄』をめざし講道館柔道の精神と技を磨き修行に励んで来た歴史があった。
終後の経済は先にも述べたが機能を失った軍需工場に働く四百万人は巷にほうり出され、七百万人の復員兵士の職も無く悪性インフレはヤミ取引が横行し、銀行貸し付け金は回収不能で支払いも出来ず、企業は破産状態に陥ち、証券取引所も一部GHQ(進駐軍)に接収 され、株式立合場が閉鎖 (昭和二十年九月から昭和二十四年五月十五日)されマッカ-サ-の厳命で日本古来の武道(柔剣道)禁止令が発せられ、道場は閉鎖され、 復員引揚者百五十万人に交じって兜町関係者は仕事もなく好きな柔道もできずヤミ物資の横流しや海産物を売り歩き、新橋のヤミ市で古靴を売り、日証館内では古着交換会を開き販売したり、宝クジを売り歩く柔道マンがいた。
昭和二十六年八月解除令と共に高橋師範の下、士道館道場で修行していた有志が立ち上がり、若者達の熱望を容れ昭和二十八年十月、此処に協和会柔道部が認証され高橋徳治郎先生 に師範委嘱を発し、助教に東証正会員協会 金原一郎先生 と完璧な地盤が整い道場の使用許可が出るや高橋師範の呼びかけで有段者の猛者(モサ)連中が仕事を終えて集まり出し新入社員を入門させ興隆を図って来た。然しスプリング入りの道場は跡形もなく撤去されていた為、コンクリ-トの上に十枚ばかりの畳みを置いただけの道場だったが稽古の出来る喜びと意気込みは物凄く小生に交じり三百五十名を越す柔道部員が集まり部費を払い登録し稽古は交替制で賑わった。 此れを見て 名誉顧問の高井証券の高良禮一社長・同じく十字屋証券の安弘一郎社長・証券取引所の馬場光雄常務理事のご尽力と証券取引所のご好意からスプリング入りの道場が完成し、正会員協会の金原一郎専務理事(当時六段・後に二代目師範八段)が証券業界と事業団等々との親善試合が必要と東京オリンピックで初めて日本古来の柔道が正式種目に認証された事を業界首脳に力説具申し後援を取り付け、恒例の行事化とした事であろうか。
其の為、協和会柔道部にはかなりの特別予算を頂戴し、活発な親善試合が恒例化した。年中行事も取引所理事長杯 ・ 協会会長杯・日本経済新聞社寄贈優勝旗争奪各社対抗柔道大会・北浜対兜町東西対抗証券柔道大会・各社対抗試合・事業団対抗試合・関係官庁(国税庁・税関・地元警察署)親善試合・ 産業別大会 派遣等々数えきれない大会を開催した。
講道館指導審議員の伊東四郎先生(八段)のお世話で柔道の神様と云われた三船久蔵十段 をお招きしての十人掛けの妙技は今でも柔道部の語り種になっている。取引所の大講堂の舞台に畳を敷き講道館から派遣されてきた女性の護身術の妙技や乱取り、そしてオリンピック優勝の猪熊先輩の十人掛け・・・・思い出は語り尽くせない。証券会社同士の紅白対抗戦の応援合戦は会社の名誉を賭けた声援が飛び交い熱気は凄まじい熱戦が繰り広げられ、大講堂の廊下まで溢れんばかりの応援団が集まった時期もあった。
地元警察署との対抗親善試合は、普段距離のあるお巡りさんとの試合だが、制服を脱いで稽古着姿の付き合いは大変意義が深かった。士道館道場の名札板には往時の兜町錚々たる方々が名を連ねていた。然し、昭和三十九年頃から証券業界に不況風が襲い、予算削減から急速に活動が制約され縮小され、加えて稽古にくる部員が激減してきて仕舞い、柔道部の存亡の危機に直面した事もあった。僅かな心ある有志で命脈をつなぎ、週三日の稽古日に集まつては頭を痛めた時期も今は慢性化し、これではいけないと自問自答しているが、現在は当時より更に立派な証券取引所の地下一階に道場を移し、シャワ-室迄完備の稽古場を頂き、週一回と稽古不足は否めないが若手の部員と共に先輩の育んだ士道館柔道の精神を絶やさず精進しているこの頃だ。
昭和五十三年十月二十七日、 士道館道場にて証券百周年記念 『東京証券柔道大会』は久々の大会が挙行それ 小池厚之助 兜町柔道会会長を筆頭に兜町の重鎮多数の参加で盛大なる紅白点取り試合(OB戦)と現役若手のト-ナント戦が挙行され、投の形演武は岡田当時四段と田口当時四段の講道館柔道儀式の披露 は万雷の拍手が巻き、OB戦の最優秀選手賞に輝いた私事、丸山三代次三段、柿沼瑞穂二段、相沢貞男二段、敢闘賞は台博二段。団体優勝は白軍に輝き、ト-ナント戦の優勝者は右田二段。五人掛戦優勝者は宇都木四段。と当時の兜町柔道界の歴史は燦然と輝やいていた。
話は本線を脱線したが再び取引所の立合場の話しに戻そう。 此の戦場とも云うべき市場の“寄付き” “大引け” “売買開始” “終了” のベルの音(おと)は戦前の「郭」と同じ拍子木から始まり拍子木で終わったのと同じで此の音から数多くの買い占め劇の悲喜劇のドラマが展開されていたのだ。近藤紡・是銀・五島慶太・小佐野賢二・横井英樹等、数多くの相場師と云われた人々が激戦の死闘のドラマが綴られていたのもこの頃である。
大光・竜ケ崎証券の破綻
昭和二十七年頃から活発に取引されていた店頭株(日証館二階の廊下)を扱っていた業者は非会員が中心でヘタ株(増資新株引受権利)取引が旺盛であった。『大光証券』の松波社長も千軍万馬の武将として活躍していた人物。一方地元の茨城県で『竜ケ崎証券』を開業(昭21年)した岡本梯一郎社長は翌二十三年に本社を兜町に移し、大学出身の少なかった兜町に「茨城から太っ腹の法政大学を出たエリートが兜町に進出してきた==と話題になった人物。参謀役には策士の小沼専務(八百屋の一人娘と結婚)根っからの兜町人で想い出深いきっぷの良い男。
『金宏証券』の中山仙吉社長は元才取り上がりの人で、小生の会社(金山)の社長から山種に買収された後、金宏の社長に収まった人で、何時もポプラの香りを漂わせ、扇子を放さず小生に『床屋に行け==』と週末には必ず小遣いをくれた人。『日山証券』は人形町の有名な肉屋が設立した会社で、元才取り会員で体は小柄であちこち忠実(マメ)に動く高橋(通称マメタツ)と・小越のコンビで活躍していた会社だ。
これらの非会員証券は通常の保証金を殆ど受けず無食(無担保)で大量のヘタ株の注文を受けた咎めは『甲南工業』『東海重工』の思惑が外れ波乱相場で次第に決済が付かなくなり、終に『大光』と『竜ケ崎』のマラソン金融(双方のやり繰り資金の小切手交換)に手を染めてしまった。此の事が大蔵省の耳に入り“不健全の会社”とのレッテルを貼られ、両社に対し東京証券業協会は除名処分に付した。此の両社の破綻の影響は当時の金で百万円以上の損害を受けた会社は二十九社にのぼり東証協のシリ拭いは四億一千万円の貸出しが有ったそうだ。此の波紋は四業者(金宏・日山・伸長・福井)にも及び、此の四社に対しても自主的廃業勧告を発し各役員は証券業界不復帰の誓約をさせ此の余震は同時に女優山根寿子の旦那の山吹証券(坊屋三郎も大手客)と丸藤証券にも波及し両者も倒産に追い込まれてしまった。
然し竜ケ崎の岡本社長は一説には共同謀議ではなく騙されたのだと言う人もいた。彼の人柄を良く知る人の話では人柄は抜群に良く人の為には尽くす人だ。丸莊証券の林莊二社長(同県人)とも良く馬が合い、当時の金で三千円づつ出し合い資本金五億円の日清紡を四百円から五百円まで買い煽った時、竜ケ崎証券を妬む輩の悪計は「竜ケ崎の資金力は尽き日清紡を投げてくる==とウソの噂を流しすと同時に売り叩き相場を崩す作戦に出て来た。直ぐさま岡本は日興の遠山元一社長の所に飛んで行き頭を下げて救いを求め岡本の誠実を知る遠山は即座に一億円を出し水を得た岡本は猛然と売方の玉を買い捲り、六百三十円まで大暴騰させ莫大な大勝利を収めた事は当時の新聞報道記事にも乗っていた。
岡本社長は遠山社長の信頼感を高めた相場師・武将の一人で、専務の小沼さんは小生は個人的に親しい関係もあってその後は好きな相場を気楽に楽しみ静かに奥方の実家に住み仲むつまじく余生を送っている。金宏の中山社長は自主廃業後は赤坂の豪邸でひっそり暮らしていたが二年後に病に倒れ、輸血を必要としているとの話を聞き『小遣いを戴いた恩義』と同じO型だった社長に『我が血液を捧げん』と病院え飛んで行き喜ばれたがその後、甲斐なく戻らぬ人になってしまった時は名物男の他界に合唱した。
名門入丸証券の倒産
入丸倒産の原因はヘタ株事件に絡んだ注文の引っ掛かりと思惑外れが原因で有った。その引き金と成ったのが『保全経済会』のカラ売り注文を受け評価損の追証追加保証金の遅滞で他社に玉をつないだ事が失敗の近因であった。元々保全経済会は大福証券を主力で相場を張っていたが伊藤斗福理事長の親友が入丸に入社したのを契機に活発な投機相場に手を染め始めた。
保全経済会のつまずきは『空売り』が直接の原因だったが、スターリン暴落で損金勘定が生き返り利食い勘定となって保証金の返還を入丸に要求(推定数億円)した所、保全経済会の玉数は反対売買でつないでしまっていた為(呑め行為)返還要求に応じられず経営権の一切を保全経済会に委譲し保全経済会の入丸証券に成ってしまった。
然し既に此の時の入丸の中身は予想以上に悪化していたのと保全経済会自体の中身もも火の車で『園池』『帝国化工』『東京海上』だけで一億円を越した損失を出していたと言われ、保全経済会は経営をあきらめ手を引き登録取消処分となってしまった。明治二十二年創業の長い歴史を持つ入丸証券も終に昭和二十八年五月に消えて行った。
その後間もなく(同年十月)保全経済会自身も業務休業に追い込まれ、東京地検の起訴を受け破産し取付け騒ぎの時には二億数千万円の赤字を出していた。この頃、日本に始めてテレビが出現し力道山ブームが到来する中、伊藤理事長は懲役十年の判決を受け兜町の中から消えて云った。
東洋精糖事件
昭和三十年始め東洋精糖の買占め劇は戦後最大と騒がれ経営権を狙った泥沼の戦いが信用取引の虚(盲点)をついて展開された。ことの起こりは東洋精糖の内紛で総務部長が社長に噛み付き退陣を迫まり株集めが始まった。此の内紛に目を付けたのが横井英樹で売り込みを誘った逆日歩攻撃は売り方に悲鳴をあげさせ、信用取引そのものの機能まで喪失させ、現物渡し不能の混乱は『藍澤弥八東証理事長』の奮闘空しく難航した。五島慶太にも協力を依頼したが此れ又不調に終わり、大株主の第一生命・安田火災の仲買でやっと一応の決着がされたかに見えたが、決済売買の前日買占めに絡んだ暴力団安藤組安藤昇組長が横井の事務所に現れ横井めがけて銃口一発==『横井英樹ビストルで射たれる==』というハプニングガが起こった。この日偶然にも『茂ドン』(平林茂三郎)が横井と会談中、目の前の出来事に遭遇し、巻き添えを食わなかったのが不思議であった。 この事件後に落ち着くと思った買占劇の紛争は再び広がりドロ試合の行方は暗澹としていた時、翌年(三十四年八月十四日)『五島慶太急死』の報が飛び込み五島昇の英断で永田雅一を立会人として東洋精糖社長の秋山利太郎が二十五億円で八百六十万株を買い戻し長い事件に終止符を打った。
藍澤弥八東証理事長
昭和十二年 日華事変勃発で発令した政府は戦時立法を制定し、銀行は金融引き締めを行い、軍需景気で上昇していた株価は一気に急落し本格的な恐慌状態に突入した時、初めて証券界の救世主『大日本証券投資』を誕生させ株価テコ入れ機関の使命を果たしたが、翌十三年国家総動員法が発令され再び株価は下落に転じ十四年欧州動乱が勃発し国際情勢は険悪化の度を増し、陸軍が『軍需品に関する適性利潤率算定要綱』を発令した事から兜町は大暴落に見舞われた。
此処に登場したのが藍澤証券の創始者『藍澤弥八』氏なのだ。『株価維持機関はどうしてもつくらねばならぬ==此れは兜町の責任==』と立ち上がった人だ。小生が二代目のご自宅でブランデーを戴きながら『親父は心底兜町の発展と日本国経済の成長の為なら命を捨てても悔いなし』と当時の父親の決意と覚悟を語られていたが、元大蔵大臣(勝田主計)との直談判、更には河田烈(現役大蔵大臣)や次官・局長に藍澤構想の必要性を迫り、株式救済機関『日本証券投資』を誕生させた方で、兜町の歴史を語るのには先ず誰よりも兜町を愛していた気骨の持ち主を語らぬ訳にはいかない。昭和十六年六月、突如ドイツ軍がソ連に侵入した為、兜町は大騒ぎで株式総売り(二十二日)殺到となった時、藍澤取引所委員長は直ちに大蔵次官の了解を得て此の売物を寄付きから全部ツケロ買い(無制限買い)を入れ株価を支えたのである。
後場は全く売玉無しと成った程この日の買いの手は凄まじかった事が記録に残っている。まさに兜町救済の為に指揮をとった千軍万馬の武将の姿が思い浮かばれる。藍澤証券のビルは兜町の開運橋の角に本大理石を敷き詰めた当時は兜町第一の堅牢荘厳の建物で話題を呼び、長年証券取引所の理事長としての活躍は今なお永遠に語り継がれる偉人の武将であった。
証券取引所の起源と由来
起源は古く、明治六年七月に政府の後押しで兜町に第一国立銀行を設立し、十一年に銀行と並んで日本の金融制度の近代化と維新からの財政基盤を固める為、大事な使命を帯びて取引所が設立した。開設当時の取引所は、正面玄関に日の丸を掲げ、回りには大名提灯を飾り立て、見物客がワンサと押し寄せ、陸軍軍楽隊が演奏する中、政府の重鎮達が出席し、群衆万歳の声に迎えられ開設された歴史が脈づいて来た大変な場所だった。
兜町の名前の由来も八幡太郎義家の東征(奥州征伐)に起源を発し、入江深く湾入りした渡し場で、義家が荒れ狂う波を静める為、船中から着ていた鎧を脱ぎ、海に投げ入れ海神に供えた事から鎧橋の名が付けられ、平の将門が兜を土中に埋めたので兜塚兜神社が建立され、取引所の建物が建設され、兜町と命名され、其の中に有る立会場に群がる多くの場立ち達はまさしく鎧兜に身を固めて戦場に出陣する武将の姿と二重写しに感じられ、殊更、無性に閉鎖された今、懐かしさが込みあげて来る。
一説には兜町が天下御免の投機場に利用されていた事から縁由を、江戸時代に活躍した怪盗鼠小僧次郎吉 のテラ銭稼ぎに端を発したと云う人もいる。 いずれにしろ今、耳を澄まし当時を回顧すると暴騰時の歓声や暴落時の地鳴り、そして良きライバル仲間や先輩達の顔が蘇って来る。此処で揉まれ鍛えられ、兜町のあらゆる裏表のノウハウと本当の金儲けの味と技と色 を教わった所でもあるからだ。
凄腕の場立ち達
昭和二十九年十月、労働組合による取引所の 二十四時間ストライキ突入「ロックアウト」 が起こった。当時の取引所小林理事を始め数人の重鎮が外部連絡の為、前以て役員室に籠城し、労組決裂からスト突入を想定し対策を練って遠山議長が総司令長。小池協会会長・小林理事長が副指令長。鈴木書記長が参謀長となりビケ隊突破の指揮隊本部を立合場南口入口前の山二証券の二階に設け、警察の予備隊(現在の機動隊)も待機し、一瞬即発の労組と睨み合っていたが、それとは別に協和会・実栄会もロックアウト破りの作戦を練っていた。
取引所の立会場 『特定ポスト』 で左側のゲキタク職員が
セリの手を振り、中央の蝶ネクタイ姿の小生が引け値に
大引けの木を入れるチャンスを狙っている。
当時は講道館柔道柔道初段で張り切っていた時でロックアウト破りの先鋒隊にならん==として南口正面玄関前で労組職員の動向を見つめていた小生たちに、三栄証券の平山三郎社長(元場立ち)が来て同社の伊藤(場立ち)に突撃の号令を出したので『それ==』とばかり一斉に片っ端しからロック引き離し攻撃を開始し 「泊り込み覚悟」で立会場に入場した。 其の時は既に午後四時を回り立ち会いはせず手締めだけで終わってしまった。
数日経ってロックアウト破りの我々に対し、入場の際、女性に対して “乳揉み攻撃" でロック外しをしたと噛み付かれ、 数名が痴漢扱いのレッテルを貼られたが、何のお咎め無しの無罪放免された事もあった。 労組や警視庁や検察庁とのやり取りは大変だったようだが詳しい事は我れ関知せず、ただ正常な取引開始に満足し “乳もみ作戦勝利" で夜は仲間とチョンの間にしけこんだ事が思い出される。此の頃の取引所は氷柱を何本も場内に置き冷やしていた。
大番で知られた合同証券の小太り男 “ブ-ちゃん"「佐藤和三郎」も場立ちとして半ズボン姿で手を振っていた。筆者はブーちゃんに何度も「玉」(株式数量)をぶっけ売買をし儲けた事が有った。
ブーチャンの甥子のみっちゃんが手合い取りをしていたがみっちゃんのいないときがチャンスで売り玉・買い玉の手振り方法の変化で親指一本と人差し指・中指の二本をまともに出せば『八』 になるが、腕の関節を左右に振ると『二』とも『八』とも見えるのだ。==・・・==・・・==・・・。
引け後のガチャバン玉合わせで値上がりした株は2になり、値下がり株は8と突っぱねる手法は筆者の==秘密の特権だった。今だから話せるがブーちゃんが健在でいたら張り倒されていただろう。古物取引免許を持っていた小生は交換会で二千円で仕入れたカメラをぶーちゃんに五千円で三回も売り付けた事もあった。「含み下駄」 (値鞘稼ぎ) も当時は場立の特権で密かに「付け替え屋」が存在して腕の良い多くの場立ち等の稼ぎ場だった所だ。
名前の知れ渡った相場師の活躍は凄まじく旭硝子のヘタ株に売買が集中し、山種を筆頭に関西勢の売りに対して、当時、山一の大神副社長は「国を挙げて株価下落に腐心いている時、カラ売りで相場を崩し私利を図るは国賊だ・・== 」と憤慨し、猛然と買い進み、日興・玉塚・合同のブーチャンも買い方に参戦し大騒ぎと成った事件もあった。
取引立合場のドーム内は、血走った眼の場立ち達の歓声や、わめき声がガンガン響きわたり、ちぎれた伝票やエンピツが散らばり、修羅場と化した時もあつた。
此の波に乗って活躍したのが日興の川畑サン。大阪支店長として栄転した時には百人を越す仲間と一緒に東京駅ホームで万歳三唱で送り出した事も有った。会社が違っても場立ち仲間の絆は強かった。山一の前田さんは店の看板で一寸威張り過ぎて人気はなかったが、大量の玉を抱えた手振りは一目置かれていた。手合取りの古本さんは何時も仲間の間違い玉の面倒を見て評判はすこぶる良かった。小生もご多分にもれず恩恵に与かり何回も助けて戴いた。恩恵にあずかった場達ちの接待で密かに芸者遊びを楽しみ小生経営のスタンドバーにスポンサー共々芸者を連れて大番振舞いは必ずチップを出す心遣いのある人だった。大和の福原サンは業界従業員の福祉活動に尽力していた協和会の功労者で人望も厚かった。
野村の栗原康雄さんは親分肌で仲間に対しての面倒見は素晴らしく、大勢から感謝されながら早死を惜しまれた人だった。岡三の吉村仁チャンは慶応ボーイで甲子園のエース、小生が紹介した三越の小柄な美人に背中を引っ掻かかれた揚げ句、生理が止まった==腹らんでしまった==と驚かされ、びっくり仰天==慌てた事があったが不思議に難を逃れ無罪放免され安堵した事があった。仁チャンは清元の名人でもあった。気性は几帳面且つ繊細な気配りと毛並みの良さは一目置く人が多く気難しさも兼ね備えた典型的な慶応ボーイだった。結婚式は帝国ホテルの孔雀の間で結婚反対の父親不在の結婚披露パーテイ・・・小生も兜町唯一の友人としてカメラマンを仰せ付かり出席させて戴いた。 素晴らしい名門(新橋)の美人奥方を迎えたのだ。恐らく独身時代の真実の秘話を数多く知っているのは、 心を許していた小生しかいない筈だ。彼こそ本当の株屋根性を持っていた武将の商人と言えよう。
角一(第一証券)の榎本武サン、山種の田久保の実チャン達はセリ抜け商い売買の手振りは天下一品抜群だった。 小生が売り方に廻り吉村の仁チャンが買い方の手を振ってのセリ商いは、引け後に申し合わせた反対売買のガチャバン穴玉(ケツギョク)合わせのマジック空商い(カラアキナイ)は、変化させるのを知らない連中や放送席の記者たちの目を狂わせ、相場の動向を撹乱させ、超ベテランまで煙りに巻いた手振りの効果、二人だけが知る秘法で密かにほくそ笑んでいた。
大商の山田元明(通称げんサン)の手振りも貫禄十分。帰宅してから自宅の風呂でお盆を浮かせ、徳利片手に酒を飲むのを自慢していた人だ。我が社の場電の隣にいた丸国の大岩昇吉(通称ガンサン)さんも小僧から手張り専門で専務になった地場育ちの生え抜きの武将で、奥様に云わせると「好き勝手にやりたい事をやりき続けた人」だった。
頭が禿げて何時も虚勢をはって威張っていた頑固な八千代の矢崎章チャンには随分いじめられた。仕返しに小生は禿げ頭のオデコを鏡代わりにして、髪の毛を櫛で梳かしたら立合場の中を追っかけ回された事もあった。「高台のゲキタク」山本の長サンや大亀・小亀サンの寄り引け売買の競りの時の 「木」 の入れ方は名人芸でした。玉塚の橋本修三郎サンは我らの親分肌の人で良く仲間の面倒を見て、人望も厚く典型的な兜町の武将である。決して弱い所は見せないし、相場の勘も度胸も頭脳も人一倍に明晰で大金を儲け、本郷に豪邸を建てた成功者だ。
才取り(実栄会)の水川馬之助社長の四十八手の秘宝写真コレクションは頓に有名で此れを貰った人は一流の場立だとも云われていた。小生も結婚式の前日に金一封と一緒に戴き今でも大事に保存している。脱腸で結婚出来ない才取りの重役もいた。黒岩重吾の弟や島崎雪子の兄もいた。筑波久子の夫が経営していた筑波証券には芸能人関係者が多く訪れ坊屋三郎も良く見かけた。筑波証券の場立ち達は皆おとなしくぱっとしない者ばかりたった。浪曲天狗道場に出演した山中証券のデブオトコ島田名人もいた。
実栄会(才取り)の吉沢社長と熱海温泉に・・・
兜町の仲間達と温泉旅行で小唄を唸る小生
このドロドロした亡霊が鎮座する取引市場から社長になった藤波(丸益証券)・ 網中(セントラル証券)・安(十字屋証券)・ 平山(三栄証券) さんたちは業界の功労者で、歴史に名前を残した偉人達だが皆んな場立ち出身。女優の島崎雪子の弟や学生柔道のチャンピオンもいた。アメリカ大使館勤務の素敵な女性と結婚した元才取り会員の社長のまじめな御曹司が、ふと遊びに行ったトルコ風呂の女の情にほだされ、 妻を捨てて駆け落ち迄した男や、多くの女性を嗚咽の涙を流させ泣かせたダンスの名人もいた。中には柄の悪い場立ちもいて美人や有名人が、取引市場見学に訪れると決まって奇声を出す不届き者も大勢いた。相場でやられた(損)男が鎧橋から身を投げプカプカ浮かんでいた事もあった。
取引所の屋上から飛び降りボコンと大音響を立て即死した男もいた。取引所の交換手には江利チエミの親戚「オタケサン」やぽっちゃり美人の「モコチャン」も我ら場立ちの憧れの可愛いアイドルだった。
取引所前のタバコ屋のマーチャンは八頭身美人で多くの場立ち達ちが狙っていた。果物屋 “水音" の娘は支度金付きでも婿養子の成り手はいない程のブス女だった。高井証券の電話交換士は多情の潮吹き女で、大勢の武将と情けを分かち合い〇〇兄弟を増やした淫乱女だった。日証館の食堂のセッちゃん(経営者の娘)は 才取りの中ちゃんが射止め、 証券記者クラブから立会場で取材活動していた顎の長い大沢さんは才能を買われ、東光証券の重役に引き抜かれたぺンクラブの仲間もいた。 ブーちゃんの秘書は典型的なブス女の癖にダイヤモンドの指輪を見せびらかせ、十万円のドレスを買ったとはしゃいでいた。 山一証券の当時、 山瀬株式部長は毛の無い頭のくせに山二証券の地下の床屋に毎朝寄前にせっせと通い必ず手入れを怠らなかった。成瀬証券裏側の靴ミガキの婆さんは場立ちの情報で相場で儲け並の人より金持ちだつた。美人喫茶の「ダット」 には卯の目鷹の目のスケベな場立ちの溜まり場だった。
喫茶店 「ミノキ」。 パン屋の 「木村屋」。 日本一美味しいカレーの 「サモワール」。元宝ジェンヌの喫茶店 「クロンボ」。 そのほか息子を殺してしまった男や、手張りで儲けて証券会社を買収・開業した男や、鳩の街にしけこみ翌朝、朝帰りの都電でバッタリ合った同じ会社の女性社員と結婚した実栄会の幹チャンや、女子社員を身ごもらせ高い代償を払った男や、ヤクザに怒鳴り込まれた男、赤線遊びで玉代が足りず付け馬(女)を引っ張って来た豪傑などもいた。
法政出身の木徳の黒沢(通称黒さん)さんは応援団長で大商の元さんと共に安来節の達人だ。山吉の安田さんの国定忠次の物まね芸は芸人顔負け人気は抜群だった。 場立ち達は皆んな芸達者と話題豊富な偉人・奇人・変人・豪傑ばかりが多くいた所なのだ。此れら場立ち達は証券界の花形で憧れの的だった。花街遊びに似た、手指の『三ジャン』『オイチョ株』『裏表』『字数の近目どり』此れらは場立ち経験者の特技で、殆ど会話無しで喋らずに指先で賭け事をしたりしていた。 此の賭け事で戦中に取引立合場に刑事が入り賭博現行犯で逮捕者が出た話を聞いた事が有る。指定株(特定銘柄)のセリではゲキタク泣かせの 『売り八』を出し、チョット左右に動かすだけで前にも触れたが『二』にも 『八』 にも化けさせる秘宝の術も存在した。
人差し指と中指の間に親指を込突込む 『女握り』 の指先手サイン。人差し指で十文字を切ると十万株、五本の指を拡げると五のサイン。其の後に女握りを出すと五万株==。女握りの次ぎに手の平を手前に引くと須崎パラダイスのお誘いサイン・・・。人差し指を上に上げると 『株は高い』 下に向けると『安い』のサイン。飲み屋に行って勘定の時の指先上下は勘定が高い安いのサイン。小指を出してコップで呑む格好をすれば『女の所え呑みに行こう』とのお誘いサイン。場立ちの手サインは色言葉に多用する経験者なら誰でもやる独特の会話術なのだ。知らぬ間に〇〇兄弟関係の仲間達は大勢出来てしまっていた。今、現役当時の歴戦の同志達が集まる年一回の 「兜町親和会」では当時の懐かしき想い出を恥をさらけ出し、語り合い、親睦を計る懐かしみの宴(うたげ)を欠かさず開催し語り合っている。
兜町の過っての猛者(場たち)が集う宴会
結婚と本格的営業活動
昭和三十四年、場立ちから営業専門職に移動し、当時話題の白木屋事件盛んなりし頃、五島慶太と対抗して、乗っ取り事件で一躍有名になった横井英樹と個人的な取引関係にあり、買い占め屋と騒がれた藤久や業界新聞社の編集長やトップ記者と親しい関係にもあった小生の所には刻々と情報が入り、営業成績は群を抜き秀でていた時、以前から交際中にも手も出さずにいた下町左官職人の長女に惚れられ、専務のお仲人を戴き、昭和三十四年二月、皇太子御成婚(現天皇)の二ケ月前の二月十四日に結婚した。
嬉しかったのは場立ち仲間が結婚式の前日、 立ち会い終了を告げるベルが鳴り、特定ポストの競り売買も終わった直後に恒例の手締で祝ってくれた事、そして多くの先輩達から四十八手の写真、桜紙、スキン等の珍品を戴き、御祝儀まで下さったのには感激して忘れられない。姉さん女房と大塚三業の花街見番前の六畳一間の安アパートを借りて世帯を持つた。後でわかった事だが家内の家系は夫婦養子で祖父は 盲 (めくら) 代議士で当時一世を風靡した高木青年の孫娘だった。左官や職人の典型的なお転婆娘のガラッパチ女は優しい世話好きな竹を割ったようなサッパリ女で、やりたい放題の小生には丁度良かったのかも知れない。 「凧の糸をしっかり持っていないと、どこえ飛んで行くかわからなよ==」 とおふくろに云われて以来、 今日までしっかりと捕まえられ、今も尚、頭が上がらず尻にひかれぱなしでいる。
丸ヤ証券の重役の椿明さん(元場立ち)は巣鴨の高級住宅街に新居を構え常々種々ご指導を戴く仲で、結婚後の新居は近所が良い思うと同時に、小生を高く評価し期待を掛けてくれていた勤務する会社の中島専務のご自宅の近所でもある大塚花柳界、見番前のアパートを見つけ新婚生活を開始した。二月に結婚し、その年の七月、中島為吉専務に呼ばれ「話がある」と連れて行かれた所が相場の神様と云われていた山崎種二の社長室だった。
既に金山証券の中山仙吉社長は山種に身を売り、経営権は山崎証券に移り、社長不在の最高責任者は中島専務で、その指揮を山種が握っていた。その山崎種二氏の呼び出しでいきなり「下町に営業所を作るから其処の所長として働いてくれ==そこの二階を居住にして頑張ってくれ==」といわれた時は本当にびっくりした。
更に山種さんは「三分の一は株主、三分の一は会社、三分の一は君の物だ==」と云われた時は二度びっくりして我が耳を疑った程だった。此の下町と云うのは小生の生まれ故郷で既に地名は台東区根岸となっていたが以前は下谷區と呼ばれ、通い慣れた幼稚園や、国民小学校など空襲で我が家(寳玉堂時計店)が焼けるまで住んでいた所には多くの知人や友人がおり、地盤は堅く既に大勢既存の顧客もいた場所で、新規客の開拓は山種米穀の関係者に目をつけ、米屋グループに標準を合わせ営業方針を懐に開店準備に取り掛かかり、三ノ輪大関横町の一角、小粒の店舗が我が城(居住地)となる営業所だった。当時二十三歳の営業所長の誕生は業界始まって以来の若年所長だった。
山種の命を受けた下町の一角の新設の営業所、 小生の友人・知人・顧客は皆相場の好きな博才の持ち主が多く、小生が打ち出す銘柄に飛びつき次々大ヒットを飛ばし、そばに開店していた丸三証券の客まで噂を聞き押し寄せて来た。四枚の引き戸玄関は冬でもいっばいに開けたまま、 大きな暖簾(のれん)の下まで客は何時も押し寄せてチョウチン買いがついて来た。
小生が兜町の業界紙 “証券ニユース紙" の記者を兼任し、 毎日投資戦略と銘柄の記事を掲載し、日刊投資新聞の友人記者がその援護射撃の記事を一面に書き、 一流週刊誌の株式ページにはペンネームで投資レーダーを掲載し、加えて多くの業界紙仲間が小生の打ち出す戦略の指示に忠実に従い、現在では犯罪行為とレッテルを張り公正取引委員会の目が光っているが、当時は公然と力と組織力での株価操縦は現在ほど厳しくなく、大胆に操る所謂仕手筋がいてそれにチヨーチンを付ける者から上手に鞘を稼ぐ兵(つわもの)供が大勢いて、むしろ歓迎ムードが充満していたのだ。
小生の仲間グループも規模は小さいが結構派手な事をして稼いでいた。勿論、相場に損はつきもので苦労も絶えない仲間も大勢いた。日刊投資新聞の松本亨社長は小生の舎弟で穀物取引所裏に会社を開設し、発刊当初の派手な大見出し記事は人目を奪い、発刊号の号外配りから購読推進の為の紹介状を書いてあげたり、毎朝、 亨チャンは玄関前のミカン箱台に乗って訓示後は決まって “日刊投資新聞バンザイ" の威勢の良い掛け声は滑稽だった。 鉄火人の投資レーダー記事は小生ガ担当し、後に木村生が続投した人気の投資レーダーでもあった。 其の為、 亨チャンは恩義を忘れず積極的に我が営業所の講演会に参加し、援護射撃の講演をしてくれたり直営のバーには演歌歌手を連れて連日飲みに来てれた密接な深い関係を維持していた。
証券ニユース社の丹羽辰吉編集長は他社での手ばりの損金が払えず泣きついてきたので肩代わりしてあげたがその後、逃げ出していったとんずら男だ==。 安藤仁三郎社長は日経新聞社の叩き上げで良く勉強をし、真面目な記事 は評判も良かった。 ただ新規公開株の独り占めは社員記者から反感をかい、追い落とし事件にまで発展し社長の椅子を狙ったふとどき男を蹴散らし、 小生が登記上の社長になった事も有った。投資レーダーの欲太郎の記事は小生のペンネームで、ご記憶の方も多かろうが「毎日楽しみに読んでいる・・・」と記事の内容を褒め、 参考にしていて呉れたとの話を聞くと、 嬉しく懐かしく結構人気が有ったのかなと自賛してしまう。経済日報社の門山修二郎社長が経営に行き詰まり資金援助の救済で小生が実必的な筆頭株主になったが今は紙くず同然の株券が金庫に眠っている。
本場の兜町から離れた三ノ輪の小さな営業所からの業界新聞社へ毎日発信する記事は結構忙しかったが楽しく自由に書かせて戴き、業界発展に寄与した記事を常に頭にたたき込み書くペンマンの使命と責任はしっかりもっていた。当時の株式部長やベテラン記者・雑誌記者も多く仲間のグループに加わり、情報提供や情報の交換に切磋琢磨し、資料の取材から作成、そして記事の校正に目を光らせ出来上がった時の新聞は光り輝く新聞に見え、ペンの顕す力の影響は的中すればするほど素晴らしい感動を覚えていた。
随分と各紙からの依頼や取材攻勢は繁忙だったがペンの素晴らしさを覚えた時期でもあった。雑誌や新聞に「当たり屋に付け」と評判が上がり “ 金儲けは熊手で集めたんでは透き間から零れる・・・ == 磁石で吸い付けるんだ== " なんて生意気な事を言っていたのもこの頃で、睡眠時間は五~六時間とれば良い方だった。
マスコミに登場
週刊大衆誌発刊の株式特集では写真入りで作家兼経済評論家の沙羅双樹と立花証券の石井久社長と小生の相場観の違いを特集記事を四ページにわたって紹介され、沙羅双樹と言う男は良く知らないが「株で損をしない方法は株をやらないことだ==」と馬鹿下駄ことを云っていた男がいた。一方、相場と女性の方でも達人であった石井ひさし立花独眼竜は、既に鋭い相場観の持ち主と評価され『独眼竜信者』は凄まじく、次々ヒット銘柄の的中で注目を集めていた。
彼は「かぶの損は絶対取り戻せる・・・暴落の中で下げなかった株もあった・・・この経験を生かせば損は間違いなくとりかえせる・・・大事なことは良い医者をえらべ・・・」と暗に良き立花証券へ集まれ== と言わんばかりに“良きセールスマン”の選択が大事と鼻息荒くまくし立てていた。
小生の事を知らない人は全く知らないガキ大将。その主張は 「相場を甘く見るな==」「身分不相応な考えを起こすな==」 「株の損を取り戻すと云って多くの相場師が消えて行った==」「株はチャンスを掴む事が肝心==」「焦る気持ちが損の元==」 と戒め、独眼竜と同じく、良きセールスの選択の大事を述べ強気の相場観を述べた。この記事の反響は大きく新規客が小生の所にどっと押し寄せて来た。この時の旧ダウ平均は確か千六百三十円台であったが其の後、一本調子的な上昇相場展開に見事見通しの的中はマスコミ週刊誌に登場した影響は凄く小生の人生が変わったのである。
★ 参考資料 → 此処を見てください。
長男誕生
昭和三十五年二月十六日、皇太子夫妻に第一男子浩宮徳仁親王ご誕生の一週間前に小生の長男が誕生した。振り返り考えると皇太子殿下(現天皇)の御成婚式が前年四月十日で、小生の結婚式が同年二月十四日。これは恐れながらも“小造りバイオリズム”は酷似していた。この喜びは義父母の初孫で天を突く喜びでもあった。
手前みそで恐縮だが、長男は学校の遠足にはお菓子を持たせて行くと決まって自分は食べなくても母子家庭の友達に分け与える優しさと親に似て度胸の良い所が目につく男に育って行った。国学院在学中、家庭教師のアルバイト収入で親に小遣いをねだる事は一切無く、 大学の将棋部でも活躍し、棋院クラブ五段を取得。 時計宝石店の血筋からか卒業と同時にカメレオンダイヤで売り出したジュワィチュル 『マキ』 に就職し、遠隔地の店長として活躍していたが、小生の勧めで証券会社に転職して十五年目、バブル崩壊に見切りを付けて、今では蓄えた資金で気楽な一般的サラリーマン生活を送っている。
話しは又々脱線したが結婚直後の小生の栄転・出産と続く喜びは商売にも反映し銀行からは個人的信用も付き、 次ぎは 『車』と『ゴルフ』だ== と、会社ではまだ誰も持っていなかった時代。運転免許書も持っていない小生は急いで家内に免許を取らせ、早速新車を購入した。 納車の日から教習所には行かず、目の前の米屋の息子に文京区の一角にそびえ立つ 東京大学 の校舎道に米屋のあんちゃんを連れて行き、実地運転を教えてもらって以来、二年間、毎日飲酒運転、無事故、無違反の実績を充分重ね、運転免許の試験科目の本を手に入れ、教習所に一度も行かず覚えた運転技術と試験科目は府中試験場で 「上手いじゃないか」 と褒められ、一発で合格し、無事免許書を取得した。
プリンススカイライン・日産ブルーバード・ホンダのオープンカー、三台を銀行の駐車場を昼夜使わせて戴き、妻子は近くの実家に入り浸りを良いことに銀座・新橋・新宿・時には遠隔地にも足を伸ばし、遊びも仕事の内と自分に勝手に言い聞かせ、毎日飲み歩き遊び興じていた。今では即座に逮捕される飲酒運転も当時は事故も起こさず悪運強くまかり通してきた不届き者。
若げのいたりの行為・悪行に強い反省を込め、現在は二百五十CCバイクとFTOスポーツカーの慎重運転に徹している。こんな綱渡りが許された時代もあったのだ・・・・・。
シンデレラ姫との出合い
府中の運転試験場で隣の席にいた青梅の老舗の染め物屋の “静子ちゃん" も一発で運転免許の試験に合格した人でした。 その喜びも大きく互いに意気投合して再会を誓い、初デートで熱烈に愛し合って以来、月一回の東京デートを楽しんだ思い出も忘れる事はない。 食事と車中愛は、或るときは運転教習場として練習していた木々生い茂る東大赤門三四郎池の片隅や、隅田川端で一年半続いた。純情派の良いとこ娘の不思議な女性で、すらりとした美人で摺れたところは全くなく彼女自身初体験だったにも関わらず、物おじせず、後悔もせずむしろ積極的に迫って来たのには驚いた。
決まって午後四時の秋葉原駅前にて待ち合わせ、 九時にはお茶の水駅まで送る五時間の規則正しいデートは『シンデレラ姫』の出会いを感じさせられた。彼女に親戚からの見合い話が持ち上がり相談を受け 「それは良い話だ・・・ 結婚しなさい==」との小生の一言にあっさり『アッ==』と云う間に小生に見切りをつけた彼女の選択は、むしろ堅実で「これで良いのだ」 と短い幸せをかみしめ、後悔の念を残さず、良き青春の思い出としてお別れに愛用のカメラをプレゼントした。今でもそのカメラを使っているとの電話をもらった事も今は遠い昔の物語りである。
山種さんが飛んで来た
昭和三十七年には地下鉄日比谷線の工事が佳境にはいり、併せて大関町交差点の道路拡張計画が発表され立ち退き賠償折衝が始まり委員として建設事務所と折衝の傍ら、顧客を集めての講演会・旅行会を積極的に開き、昼間は玄関戸いっぱい開けた軒下の『のれん』の軒先まで客を集めての商売は大盛況であった。 小生の所に“大盛況”との評判を聞き山種の社長が飛んできた事があった。
一体どんな商売をしているのかと予告も無く一人でいきなり見にきたのだ。 丁度その日は狭い店舗にししめく客がいる中、流石は大物大成功を収めた苦労の商売人、居並ぶお客に小生のことを褒めて「所長を宜しく・・・宜しく・・・ 」と何度も顧客全員に頭を下げ全員に名刺を配る如才なさは改めて、裸一貫の米問屋の小僧からコメ粒を拾い集めニワトリを飼い育て卵を生ませ、兜町を代表する相場師と言われた大成功者 『相場の神様』 と呼ばれていた人、山崎種二社長の隠れた一面を見た気がした。
★ 参考資料/此処を見てください。
名刺を貰った顧客は突然の兜町の大物が来店したのには皆びっくりしたり喜んだり貰った名刺を懐に大事に持ち帰り神棚に飾っていた人や、大勢に見せびらかせていた人達がいた。後で山種の角田支店長(元場立)から電話が来て「そんな事は内の店ではやった事がない・・・== 本当か・・・==驚いた・・・==驚いた・・・==」と何度も叫び、異例の激励訪問に吃驚していた。
営業所長と浅草のバーテン
一方調子に乗る小生の無軌道ぶりはエスカレートし、浅草の一等地に開業している豪傑ママの開業していた“バー”「ザボン」を二兄から紹介され、応援してやってくれと頼まれたのをいいことに株式の立会いが終わるとすぐに銭湯に行き、早めの食事を済ませスポーツカーに乗って浅草の店に行き手伝いをする事になった。昼は一国一城の主。夜は浅草のバーテンダーのマスターとして・・・ 。
現職の営業所長のまま経営不振に喘ぐバーを手伝って自分も楽しみながら蘇生させ儲けてやろうと、仕入れから掃除まで請け負い二年間、所長とバーテンダーの二重生活の日々を送った。バーの客種は良く、粋なママとのチームワーク宜しく店は大繁盛。小生の得意の手品やバーテンダーコンクールで入賞した時の得意のカクテルは大好評。客のおごりのお化け(ジョニ黒瓶の中身は安物ウイスキー)のウイスキーを頂き、売上は急増し増収増益。上野駅までお客をオープンカーでの送り迎えは大好評で余録のチップは昼間の月給を上回り、株の話しは大先生と煽てられ一目置かれ遠路わざわざ来る客も多かった。良き酒の肴なでもあっただろう。 一流のバーは客とバーテンとの会話が主流でボックス席でコソコソ飲むアベック客は来ない。バーテンの役割は経営に重要な話術が必要なのだ。
酒癖の悪い嫌な客が来ると決まって「テメェー帰れ!」と酔った振りした粋なママの啖呵で色気は使わない店だった。約束の二年間を終わって完全に軌道に乗った店を辞めるときママから感謝の気持ちと云って預金通帳とハンコを渡され『好きなだけプレゼントする』と云われた時はびっくり仰天しながら言葉に甘えて百万円を戴いた。一般社員の給料は大卒新入社員でまだ二万円以下だったと記憶している。
日本共同証券誕生
昭和三十九年一月二十日、興銀を始め十四銀行四証券の共同出資の株式買い取り機関、日本共同証券は資本金二十五億円(同十一月には三百億円)で設立され日銀資金の裏付けもあって約一年間で一千九百五億円強の株式を吸収した。このテコ入れ効果は国際収支の改善に支えられやや戻したが、三月には公定歩合引き上げと企業の業績悪化や投信の大量解約がつづき日銀の本腰入れも効果なく政府は慌てて緊急総合対策を打つて出たが逆転した市況は焼石に水となって管理相場の様相を呈してしまった。
この頃の惨状はまだ記憶に新しい所であろうが一口に言って恐慌そのものであった。その原因は岩戸景気の反動で (一)投資価値の減退、
(二)株式需給バランスの破壊、
(三)証券業者の不況抵抗力の喪失、
等が絡み合ってきたと考えられる。設立の裏工作は前年の夏ごろから全くの極秘裏に興銀の中山頭取を中心に富士銀の岩佐頭取、三菱の宇佐見頭取の三氏と大蔵省の加治木理財局証券部長等であった。当然かっての日本協同証券設立時をだぶらせて興銀主力の協議が展開され現時の条件に修正して基礎をまとめ証券界人とは一切の相談・折衝は遮断しての完全な極秘密談の中に設立基盤は出来上がった。そしてこの共証計画を絶対のものにするにはどうしても日銀資金の裏付けが必要欠かせぬ存在で、当時の佐々木副総裁に根回しをし、了解を取り付けてから始めて証券界と接触があったようである。
当然証券界は銀行主導の機関構想に不快と警戒論が涌出し、時の池田総理大臣も消極的だとのウワサを聞き証券界独自の機関設立を検討しだした。具体的に資金は当時の限度いっぱいの百億円を頭金としてこれを見返りに金融機関から五百億の融資を得てのテコ入れ保有組合構想であった。(株式会社ではあまりにも共証に対して挑戦的との配慮)この構想は直ちに日銀へ働きかけを開始し共同証券の限界と警戒論を訴え第二陣のテコ入れ機関設立実現に動きだした。
一方共同証券の活動は社会情勢の実態悪を深め、色々な流れが絡み合い複雑な苦難の展開となり線香花火ににも似た役割に終始してしまった。更にこの苦難の共証の動きに水を差すごとく翌々三月には公定歩合の引き上げで売り物が覆いかぶさり山際日銀総裁は慌てて野村の瀬川社長に「資金を出すから株価安定に協力してくれ」と要請してきた。 しかし銀行主導の共証と日銀の引き締め強化に強い不快感を抱いていた瀬川氏は「株価は下がっても戻れば好い、もっと売り込ませてから相談しょう」と虚勢?を精一杯込めて答えたらしかった。実情は金融引き締めの強行で証券界も産業界も完全に痛めつけられ足並みは揃う情況ではなかったのが現実であった。
共証も所詮は民間証券で体質に限界があり、四回の増資で三百億円となり一千億円の市中借り入れ資金で買い支えをしたが銀行主導の素人機関の戦略は空しく壁に突き当たってしまった。世論の批判は「管理相場」「引き締めのシリ抜け」「証券会社に対しての差別待遇」と悪評判の声高まり、三十九年十二月十日の参院予算委員会、同十八日の衆院大蔵委員会で共証に対して
一、日銀法違反ではないか。
二、証取法違反ではないか。
三、独禁法違反ではないか。
等々とあたかも存在意義を否定するがごとく鉄槌の質疑が飛び出し、中山頭取、三森共証社長の二人は苦しい答弁に追い込まれ「役所仕事ではやれないので、狙いはあなた方と同じである、只非常手段としてやっているのだ、目的を達成したら解散する・・・」との苦弁を述べ答え、すでにその機能は止まり翌年の四十年一月僅か一ケ年を以て業務をストップしたまま使命は終わり買い支えた株式は凍結し、その後五年をかけ序々に放出を終え、四十六年一月末に解散し、残余財産は同年二月一日発足の「日本共同証券財団」に引継がれ公債金融、企業金融などに役立つ機関に変身したのである。
保有組合誕生
過剰株式の吸い上げテコ入れ機関共証は三十九年一月設立当初から証券界の首脳部から悪評を買い実質一ケ年で活躍期の幕は閉じ変わって四十年一月保有組合は誕生した。
共証設立前後から証券界独自の自主的機関の計画は先述の構想で設立に向かって動き出し、こちらも極秘裏の密談は回を重ね井上東証理事長、谷口日証金社長(共に元日銀副総裁)高山日証金副社長(日銀出身)は経歴を生かし資金源は日銀をあてに幹部への打診を開始していた。
三十九年九月井上理事長は山際日銀総裁から承諾を得て十月、田口東証副理事長、高山副社長にもその構想を話し十一月には、高山氏は日銀首脳幹部と再三会談を重ね業界が一体となって不況打開にあたるなら全面協力をする旨の意向を日銀から取り付け十二月、瀬川東証議長を交えて高山、谷口会談で推進責任者は井上理事長でやる事を決定し、四社の副社長を交え綿密な機構試案のまとめに入った。この頃の会合は総て秘密保持のため転々と場所を変えての推進であった。
そして日銀副総裁からも同意を取り、大蔵省の松井直行証券局長、加治木俊道財務調査官、石野信一次官までの了解も取り、宇佐見三菱銀行頭取が山際総裁に変わって就任(十二月十六日)引き継ぎ事項としてレ-ルのまま動いてくれたので即座に中間関係者への説明に入った。この頃から一部の新聞記者がかぎつけ報道し始めてきたので急ぎ詰めにはいり規約をつくり大蔵省の指導を受け設立趣意書の草案を作成し提出した。
趣意書には (1)大蔵省の指導をうける事、
(2)清算時の利益の半分は公共目的の為保留する事、
などの条件を特記させられての提出であった。 その日は年の瀬迫った十二月三十一日大晦日、最終決定をしたのである。この日の朝、石野次官、松井局長が先立って当時大蔵大臣だった田中角栄の私邸へ報告に行き、続いて井上、瀬川、福田、田口各氏が訪問し了承を得た。この時、田中角栄大蔵大臣に資金枠二千億円と言ったら「なかなかうまい事を考えたな一兆か二兆円をつくれよ」と独特の角栄節が飛び出し即決決断されたのである。
(下駄を履いて自宅の庭を散歩する田中角栄氏)
宇佐美新日銀総裁からは「今回が最後の対策のカネだ、これは証券会社救済ではなく公共目的のカネだ、市場は自律価額にもどってほしい業界はここで体質の改善をしなきゃいかん==日銀には逐一報告は怠らぬ事」との注文も付け加えられていたのだ。
明けて新春四十年の正月五日東証会員懇談会後、正式発表をし十二日に保有組合は見事誕生したのである。まことに “義士の討ち入り ”の時のように隠れ隠れて隠密行動の密議を凝らした涙ぐましい先達たちのご尽力の結晶の船出でもあった。表向き日証金の借り入れ資金としていたが、その背景はすべて日銀資金であった。「鬼に金棒、渡りに舟」最強の味方の後ろ盾での出発でしかも業界プロの機関誕生であった。
過剰株式の吸い上げはすべてバイカイをつけるいわゆる「肩代わり」で二千三百二十七億円強を一気に吸収したのである。しかしこの時の地合い事態はけして甘くはなく五月に山一事件が表面化し取り付け的な様相の投信大量解約や不安人気は証券恐慌のヤマ場に入ってきた。これこそ後になってかえってカラ売りが増え自律反騰のキッカケとなり、日銀の特別融資の実施やそれに符節を合わせるように引き締め政策の大転換が発表され反騰相場の舞台装置が絵に書いた様に形成されて来たのである。
そしてこれを期に保有組合の使命は完全に大成功の偉業を歴史に残し経済大国ニッポンに躍り出たのである。この成功を収めた保有組合の業者分の手持ち株も翌年には売却、投信分も四十四年始めには完売し目的、使命は完結されその年の一月十一日解散した。
勿論、発足時の約束、余剰金の半分(二百五十億円)を「資本市場振興財団」に移し資本市場育成の為の基金にしての解散である。財団の基幹資産は十一社の証券会社によって構成され十五年間の運用を経て帰還し、業界の発展に貢献した事も言うまでもない。 此処に登場した人物たちは皆、兜町を支え将来を憂いて業界の為体を張って尽くしてくれた偉人であり、忘れる事の出来ない武将達なのだ。
仮面を被った金縁メガネの詐欺師
共同証券・保有組合の業界騒然としていた時の昭和四十年の春、道路拡張工事に伴う賠償問題が多額の補償金獲得で決着し、現居住の入谷町に移転し、浅草のバーの手伝いにも区切り付け自営のバーは舞踊家の姪に任せて再び遊びあかしていた時、小生を中心にした小型株の買い占めのまね事は連日目を光らせ戦略宜しく躍動させていた。仲間はチョウチンを付けて儲けた連中は大勢いた筈だ。兜町に事務所を構え金縁メガネにステッキ姿の仮面を被った紳士(高橋徳二郎)もその一人で練馬に洋館建ての豪邸を買い風で肩切る羽振りの良さはたいしたものだった。
何時も礼儀正しく言葉に気品を込めて接する対応には初対面の人々には大物相場師として一目おかれていたに違いない。しかし相場の世界は変幻自在の生き物で女神も悪魔も同居する戦場でもある。 この厳しい現実を有頂天になると決まって誰もが現実の厳しさを忘れてしまうものでいつしかのぼせあがったその紳士は独自で仕手戦に望み、 腕力で株価を煽り飛ばし、上値を買い進み最後は高値買い玉が抜けられず受け渡し不能の事態に堕ち証券会社の担当者を道ずれに自爆し終に証券会社を引っかけてしまった。
その悲劇は妻は逃げ出し自殺未遂に追いやり、多くの仲間の人生を狂わし、挙句の果ては詐欺師として逮捕さてしまったが、その後の消息は今は誰も知らない。恐らく野たれ死んで地獄に落ちてしまったであろう。激動渦巻く兜町の中には真面目に働きながらも相場の魔力に取り憑かれ自滅する人、騙す人、その隙間をかい潜り稼ぐ奴や逃げ出す奴はごまんといた。その中には風上にも置けない卑劣な行為をしても天として恥じずに再びケロリと兜町に平然と大手を振って姿を現し、飽くなき悪事を繰り返す大悪党も潜んでいた摩訶不思議な世界でもあった。
新潟の地場証券社長
実際に小生も自称情報屋とか新聞記者の手張り玉で多額の足(損金)を出した連中の面倒を見る結果になり折角蓄えた資金を無くした事は恥ずかしながらあった。今でもその時の借用書が金庫の中に沢山眠っているが未だに一人としてお世話に成りましたと返しに来た者はいない。負け犬は逃げ出し消息不明になり死して地獄に落ちて行くものだ。 そんな奴と付き合い被った己も自業自得と恥ながら彼らを追いかけ捜し出す気にはなれない。それでも伊豆下田の温泉付き高級別荘地別荘地を購入出来たのも勝負の世界の厳しい裏表をかい潜り、要領よく大胆に良き先輩や友人に助けられ生き抜いて来たからであろうか。此の頃から新潟の非会員で新潟一のやり手証券と評判高かった本荘証券社長本荘信雄氏を知人の新聞記者から紹介された。本荘社長は小生の若さと発想・着眼点・組織力に惚れてくれた人でこちらが打ち出す銘柄には必ず参戦に加わってくれた。
指示する株数と株価と発注時間まで守ってくれ、資金力も充分あり社長の手張り玉と新潟の投資家を動員しての援護射撃の追撃買いは狙った材料株の水準上昇に拍車を駈けるのに充分な効果を挙げて呉れた。市況が好転している時にはある程度の腕力でも相場は上昇し、加えて仲間の新聞記者が調査した好材料を新聞に乗せタイミングを見て援護の煽り記事を書くのだから勝負は早かった。
勝利に酔った本荘社長が東京にくると決まって築地に宿をとり小生を招き次の打ち合わせをした後には必ず最低三軒以上のキャバレー巡りが多かった。須田町から京橋・銀座・新橋のキャバレー『ウルワシ』である。着物姿の日本髪美人の歌うウルワシソングを好み小生得意の三ジャンに興じる時は何時も目を細めすこぶるご機嫌宜しく信頼関係を深めて行った。ほどよく酔うと決まって小生が結婚して子供がいるのを承知で清心女子大のお嬢さんと「一緒になってくれ」と云うのが口癖だった。独身の内ならいざ知らず社長は汚い・・・と一笑に伏した事もあった。
平和相互銀行の小宮山英蔵の傘下に収めた東洋端子株の買占め劇は物凄かった。蠣殻町の商品取引の水野証券社長が百万株。千代田冠婚葬祭互助会の杉浦末広創始者が百万株。そして本荘社長も百万株。 小生関係も百万株を仕込み買い進んだ。仕掛け人は吉田茂の元私設私書の大物で東洋端子の井上直明常務の口車に乗って仕手戦を開始したのだ。何時の世も相場の世界の仲間割れは付き物で、杉浦・水野の売り抜け反乱を嗅ぎ付けた市場新聞に関係筋の百万株が受渡し不能==と確認も取らず全くのデマの記事が掲載され相場下落に拍車がかかった。
此の時ガッチリ買い支えて呉れたのが本荘社長で相場は一気に息を吹き返し成功を収めた思い出は忘れられない。証券界の荒波をかい潜る武将達は、常に非情冷酷な心と、例え潰れても、固い約束を守り通す義勇の心が存在し、成否は別に蠢いている事は忘れてはいけない。本荘社長が赤坂の超高級マンションを購入したのもこの頃だ。
以来、数々の相場を仕掛け、幾多の企業経営にも参加し、昭和五十四年八月には日本化薬の原安三郎会長の要請を受け、創業五十年の歴史を持つ無借金会社の社長に就任し、株の世界に其の名を刻んだ今は亡き武将である。
波瀾万丈激動渦巻く
兜町の歴史を綴る武将達
第 三 部
社員から歩合外務員 凄腕の武将 三越のあげまん女
当たり屋と曲がり屋 相場師と最後の別れ
重要文化財『大手鑑』の怪 牝狐
私設秘書 小宮山英蔵の野望 富士大石寺顕正会
職場の移動 誠備の武将 投資ジャーナル
“愉快な応接間” 『ウオール』
本格的なハブル時代 悪徳情報屋 向島芸者
野村証券出身の相場師 被害者か自業自得の共犯者か
河口湖畔に二千坪のホテル『フラミンゴ』
社員から歩合外務員
一年ほど前から誰に聞いたか小生のところに情報を聞きにくる満州からの引揚者で山種の銀座支店の次長がいた。S男と云っておこう。 彼から電話が入り「一国一城(所長)の主と云ったって所詮はサラリーマンでしかない・・・。 雇われ使用人は何時迄たっても使用人だ!。 独立(歩合外務員)しないか・・・ 」と云って来た。 聞けば彼は既に堅実無比な歴史と伝統のある屈指の藍澤証券に歩合セールスとして転職勤務し活躍していた。
会社は歩合外務員中心主義の経営を取り入れ、大変理解ある会社だ・・・。 との一言が胸を突き刺し、彼の勧めで長年お世話になった会社を去るのには多少抵抗があるのと、一抹の不安が心をよぎっていたが・・・、期待と希望を抱き、恩義ある会社と可愛がって戴いた中島為吉専務に別れる寂しさに『決別』を決意し、慰留を振り切り、十五年間の恩義を感謝しつつ“名を捨て実を取らん”と一匹狼的要素の強い歩合外務員に転職した。
ご丁寧にも中島専務が、自ら藍澤証券に直々出向いて藍澤社長に「丸山を宜しく面倒見て戴きたい・・・ 」と挨拶して下さった。 転職当時は業界ナンバーワンの歩合外務員王国の藍澤証券は猛者揃いの優良会社であると同時に、業界発展と外務員の地位向上を経営理念として考えていた為、優れた多くの一流外務員を有する人材の宝庫の会社であった。
転職後間もなく転職を妬んだ前社の者と名乗る男から「丸山は専務と結託してあくどく儲けた男」と匿名の怪電話が藍澤吉雄社長に直接電話を掛けて来たのだ。藍澤社長は「ありがとう・・・・実はそういう兵(つわもの)が欲しかった・・・・」とジョーク交じりで答え電話を切ったそうである。
どこの会社にも妬みや人の足をひっぱる姑息な悪党や、卑下妄想にかられるチンピラはいるもので、この怪電話をした男は恐らく山種証券の仲間から爪弾きにされ、回されて来た男で、常務の下郎となって太鼓持ちをし、証券取引所の電話交換士とくっついたゲス野郎の讒言に違いない。
此の頃は株式市況は岩戸景気の反動で衰退し需給バランスは崩れ出来高は極度に減少していたにも拘わらず転職後の商売は月給社員時代と違って絶好調・・・ 。 相場の動きを的中させて売買すればするほど収入につながる商売が『歩合外務員』である。 転社前の殆どの客が預かり資産全部を引き上げ、転職した藍澤証券に移動してくれたお陰で一躍アッと云う間に月収百万円を越す高給取りに変身し、一年後には現在の居住地、入谷に小さいながらも三階建ての新築家屋を建ててしまったのだ。証券会社全体は不況の危機感を抱く中での成績は、自惚れながら群を抜き、顧客からの信頼は固い絆でつながっていた。
その一方では歩合外務員への権利が弱体化しつつ従来の不文の習慣・不文の利益は破壊傾向にむかっていて契約書の義務化・管理監督の強化と続けざまに外務員の将来を憂うる事態が出来していた時期だったが、外務員に理解の深い藍澤社長は他社の外務員が羨む優遇をして呉れていた。
そんな時、共に相互共済損害補償積立制度の案を出し、後年外務員契約に身元保証人二名の差し入れに対して“一名を減ずる事が出来る”旨の従業員取り扱い諸規定の改正を勝ち取る功績を築いたのも藍澤証券の一握りの仲間達の努力の結晶であった。その先頭に立ったのが平成十一年、六十九歳で急逝した外務員協会の会長を司かさどっていた水谷融氏がいた。彼は酒は飲まず義理付き合いは断らず時には己の仕事を犠牲にしてでも唯々歩合外務員協会の会員の事しか考えない変人真面目男だった。
福島県の会津で生まれ石炭会社から外務員になつた減らず口数の多い癖は強いがやり手の斎藤和夫さんもいた。 人から馬鹿だチョンだと云われてもケロッとして頑張っていたクリーニング屋から転身し講演活動や出版物を出し顧客を獲得し成績をあげていた変人の吉沢藤吉さんもいた。 高級外車を乗り回し、銀行関係に強い客筋を持っていた凄腕エリート井上晁さんも豪邸を新築し、お嬢さんのピアノは素晴らしかった。
勿論、ゴルフのシングルは何人もいた。 榎本好晴さんは親子二代続づく外務員で今でも安定収入を維持し続けているが、当時はまだ独身で我々五人組の仲間と毎日せっせと高島屋の食堂通いで見染めた美人の店員(お客係)を見事に仕留めた幸運児もいた。 城風泰彦さんは横浜の港北に広大な面積を購入し、豪邸を建てた特攻隊の生き残りで、個人的にも大変小生を可愛がって下さった大恩の先輩。仕事と遊び共々密接な深いお付き合いは想い出が多く染み込み心から離れない。皆千群馬場の武将達揃いの店であった。
此の兜町の兵(つわもの)と云われる武将達ちは藍澤社長の徳に集まった人々で語り尽くせぬ思いでは語り尽くせない程沢山ある。役職員も堅実無比の社風を受け継ぐ人材揃いで業績と含み資産比率は業界唯一の会社であった。
凄腕の武将
小生を外務員に誘った一歳年下のS男とは兄弟の契りを交わしたいわば親友ライバルだった。 良く働き良く遊んだ。 台湾ツァーに興じ大持てしたり、ゴルフ会員権(太平洋クラブ480万円)を、当時としては家一軒が買えるほどの会員権相場としては高額で、100箇所のゴルフ場を造り、二年後には2000万円になるとパンフレットに宣伝し、高松宮様の写真まで掲載され、株式投資より率が良いと、まだゴルフをやったことが無いにもかかわらず 『儲かる』 の欲望だけで飛びつき一緒に購入したり、仕事上ではお互いに仲間からは “やり手” と煽てられていた。 その親友が悪党詐欺師杉山 某に騙され全財産を失い莫大な借金地獄で苦しんでしまった事があった。
行方の解らなくなった悪党詐欺師の取り立てにS男の為と幾度も一緒にあちこち探し続けてやり、やっと板橋の隠れ家を突き止め、詐欺師の寝込みをかけ悪党を捕まえ糾弾すると、われわれの事を苦し紛れに悪党奴はいきなり電話で板橋警察署に 『今脅かされている』 と盗っ人猛々しく恐れも無く電話を入れたのである。 数分もしないうちに駆けつけたパトカーの巡査に、事情はどうあれ 寝こみをかけたことは二人は脅迫容疑に当たるから署に出頭しなさいと! と連行されたことがあった。
警察署での調べに対し、杉山某は既に要注意人物に名を連ねていたらしく取調室での我々のとった行動に対して理解は早く 「事情はわかるが未明の寝込み訪問は犯罪行為にあたる」 と親切に教えれくれて 「以後はしません」 との始末書を書かされた嫌な出来事があった。
それから数カ月たった頃、今度はいきなり警視庁日本橋警察署の刑事が勤務地の会社に来てS男を仕事中にもかかわらず連行していった事があった。 容疑は S男 が暴力団と関係して、八ミリブルーフイルム取引の違法容疑だったらしく、刑事は数カ月の尾行の結果だそうだ。
丁度、その頃、数日前から早稲田の学生デモ騒ぎで大勢の学生達が留置場にいて満員だったそうで、彼は大勢の学生たちと一緒に暮らしていたが、取り調べの結果、容疑が晴れて無罪放免で仕事に復帰、出社してきた。 この事件で、太っ腹の藍澤吉雄社長の英断も素晴らしく、疑惑の原因が悪党の苦し紛れのウソのたれこみで、誤認逮捕であった事で会社の名誉に傷つけるものではなく、外務員の資質を汚すものではない事から不問に伏してくれたのであった。
しかし彼は悪党と付き合った咎めは、親の葬儀費用にも困まるぐらい完全に懐は資金ショートに追い込まれ、可愛い長女出産直後は地獄の苦しみを味わっていたのだった。 “二度と兜町には戻らない” と彼は兜町から姿を消していった。
ところがしばらくの期間の生活は知らないが、再び、兜町に復帰して来た。 天性の「嗅覚」と「金儲けの味」 は忘れがたく、幅広い彼の人脈と実績を持つ信用を知る某氏の誘いで、剛腕の男の夢は、再び花開き、兜町に舞い戻り、中堅証券に姿を現し、証券外務員として手腕を発揮し稼ぎに稼ぎ捲っていた。
「アッ・・・」 と云う間に一切の借財を返済し、一時、藍澤証券に多額の迷惑をかけていた借財金を一気に返済した。 藍澤社長は 「全額完済したのは君だけだ」 と彼の凄腕を褒め、兜町仲間からも “ 凄い男" と兜町中で一躍有名になるまでに時間は掛からなかった。
その後の勢いは飛ぶ鳥落す活躍振りで、長者番付に名を連ね、幾つもの高額な一流のゴルフ会員権を数箇所も手に入れ・草津の別荘マンション・伊東の別荘・更には荒川区南千住の警視庁長官が襲撃された有名な推定三~五億円の超高級マンションなど瞬く間に次々購入し、車は高級外車ボルボやBMWを次々と買い替え、乗り回した剛腕は流石に凄いものである。 彼は相場師ではなく凄腕の武将、 優秀歩合外務員だった。
しかしその手腕と儲け方法は小生は知らぬ。 桁外れの大活躍をし、仲間からは “凄い~” と褒めながらも 「ベールに包まれた不思議な相場師」と異口同音に話す者が多かったのが小生には唯一気掛かりだった。 確かに人一倍、家庭を放り出しても金儲けの為なら・・・と働き続ける働き者である。 然し、一方、彼を尋ねてくる相談相手・友人・知人には首をかしげたくなるような、小生の目には悪党と思われる奴にまで笑顔を絶やさず面倒を見てやる馬鹿な短所があり、随分その悪い奴らに騙され、裏切られ、家庭を悩ませ、苦汁をなめされていた筈である。
三越のあげまん女
金十証券の鈴木久生先輩の紹介で知り合った三越本店勤務の青江美奈そっくりの風呂屋の娘、此のマネキン社員の出現は一時家庭騒動に発展したが自然と収まり、続いて同僚の佐久間良子似のあげまん女の出現では家庭騒動回避の経験を生かし、すべては仕事・仕事に事寄せての理由をつけた上手な付き合い方は育児教育に専念する家内を煙に巻き、思う存分時間をつくる事が出来た。
殆ど自営のバーにこさせて手伝だってもらったり顧客接待のホステス役として働いて貰った。 三越のプロのマネキン社員の美貌と話術は素晴らしくバーの客から株の客、更には小生の友人仲間との接待も上手にこなし、その上、株のお客まで紹介して呉れた良きパートナーであった。
本格的な深い付き合いは上野動物園裏のマンションに転居させてからだったが、此のころからは完全に店のママ役として活躍し彼女の妹夫婦も後押しする関係は完全に小生の為に尽くして呉れた。 彼女とは本当に良く遊び仕事のエネルギーを与えて呉れたあげまん女と言っても過言ではなかった。
其の時に竹町のバーによく来る客で以前の浅草の 「ザボン」 の客でもあった印刷屋の若旦那が彼女に接待を受けている中にぞっこん惚れてしまったらしく意気なり彼女と結婚したいと云い出したのには驚いた。
彼女は色白で気立ての良い頭の切れる女で生活力も色気も兼ね備え、特に小生とは相性が良く嫌な顔や怒ったことの無いしっかり女であった。 その女性を若旦那が欲しいと云うのだから穏やかではなかった。
一瞬戸惑い、ふざけんなと云う気持だったが、その男の本気な気持ちが伝わり真面目な性格を知っていたので、その真剣な申し込みを聞き入れ、彼女の為にも良いのではと結論を出し、その男に一応は彼女の過去の経緯を隠さず話さねばと縷々話したところ、かえってその過去に感激して、一段と強い結婚の決意が固まったと云われ嘆願の固いことに驚きながらも取り持ちを約束した。
彼女の将来を思う心を彼女に伝えて 「惚れられ好かれた男に過去を全て知っての申し込みは本物だから結婚しろ! 所詮は一緒になれない男と何時迄も一緒にいてはだめだ! 君の将来を考えると、君の本当の幸せは結婚だ! 俺との付き合いは終わりだ・・・」 と伝えると、泣き叫び、怒るのかと思いきや、彼女はあっさり其の気になってしまったのには二度ビックリした。
素敵なダイヤを捨てる寂しさと、所詮は添えない男と女、 彼女の将来の幸せを考えると後ろ髪を引かれる気持ちと未練が入り交じる複雑な気持ちを抱きがらも、肩の荷がおりる安堵感も手伝った嘘偽りの無い離別の心境であった。 異心伝心は彼女も感じたのか結婚話はドンドン進みあっさりと結婚して消えて行ったが、その後の消息は知らない。真面目な男と聡明な女の家庭は結構仲むつまじくやっている事だろう・・・・・。
当たり屋と曲がり屋
月刊 「株式ニッポン」 に “月収百万を稼ぎまくる歩合外務員” と仲間の武将達に混じって小生の事を三ぺージ記事で紹介された時の反響は凄まじかった。 参考資料
(相場は常に調査・研究に励むべし)
毎日百通を越す手紙が全国津々浦々そして外国からも舞い込んできた。 その記事を読んだ投資家が金や株券を持って来て 「儲けさせて呉れ」 と馬鹿みたいに殺到して来た。 小生は全部無視した。虫の良い客は客ではない・・・ 「損してもいいから儲けさせて欲しい・・・」 と云う人は一人もいなかったからだ。
当時の業界紙や他の週刊誌にも小生の紹介記事や投資戦略の方針のコメント記事は枚挙に暇が無かった。 ライオンズクラブの講師を初めとして専門家の株式座談会、 一般投資家グループの講師などの依頼や場違いの 「花街の遊び方」 特集を組んだから体験話をしてくれと週刊誌の記者が取材に来て応じていた時は絶頂期で結構忙しい中にも充実した毎日だった。
週間新潮のワイド特集 「公然たるトップ情報の虚実」 でも “ダウ千九百円と三千円の音声の違い” の小生の写真入りの見出し記事では 「ダウは今一千八百円台だがダウ三千円になるのはは当然で此れから大衆相場が出現し三倍五倍になる株がゴロゴロ出てくる。 上昇相場は一年や二年ではない・・・ まだまだ続く・・・」 とぶち上げ、その後の上昇相場の到来には拍手喝采された事があった。
★参考資料
(株価はこれから3倍、5倍になるぞ~ と鼻息高い小生)
それに反し経済文芸社の発行人藤田貞夫は “大衆を騙す犯罪相場" と決めつけ、弱き相場に徹し 『暴落近し』 と、売り方針を打ち出し、強気の小生の事をあろうころか 『ペテン師』 と罵り、知人や読者に総売り指令を出した男がいた。
その直後、 相場は上昇に上昇と騰げ続け、売り方は総踏上げの上昇相場が展開され担ぎ上げられ、売りに同調した弱気筋は大火傷の大損失を出し、 読者からは喧々諤々の苦情が殺到し、経済文芸誌の面目丸つぶれは当然の事、本人の手張り玉の損失も莫大な額に達し、夜逃げ寸前との噂が広がった。
その後、何時、経済文芸誌が廃刊になったかは定かではないが、想像すると曲がり屋 「藤田貞夫」 は自滅の道を辿り、兜町から消えその後どうなったのか知るべき所ではないが悲惨な運命を辿った事だけは事実のようだ。
相場師と最後の別れ
残念だったのは親しかった曽田綱次郎さんが止せば良いのに地方株(ボロ株)販売に手を染め詐欺行為と断定され特捜部の調査を受け破綻し自殺を図った事だ。
礼儀正しく几帳面で仲間に対する仁義は固く努力型の人だった。 訪問客仕事はハッタリ的要素は結構強く分厚いジュータンを敷き詰めた応接室には高価な絵画と置物を飾り気になる所はあったが別の道を歩む商売の戦略と思い、小生の口出しする所では無かった。
然し、お互い将来の成功を夢見て頑張ろうと誓った仲間の一人で、彼は彼なりに相場の魔力に取り憑かれ、独自の道を選んだ甘言商売、ボロ株販売に無理が生じ、結果的に資金提供者への責任をとつたつもりか、回避かは、定かで無いが、甘い欲に群がるそうばの世界、人間の咎めは、金を失った者と命を捨てた者との絡み合いに心は暗かった。
曽田氏(左側)と小生が杯を交わした最後の写真
一方、証券取引所の守衛時代に相場の美味みを覚え、羽織り袴で風切る勢いの 藤網久二郎 も昵懇の人だった。 知人の総会屋に紹介され、付け替え玉を一度扱っただけだが京橋の料亭で御馳走になったことがあった。 独眼竜みたいに片目眼帯メガネのその顔は鋭く、初対面の人なら 怖い 印象を与える。 日本皮革の買い占めで大勝利を収め、派手な花街遊びの凄いことを先輩から聞かされ、銀座の川瀬留吉の後ろ盾を受けての株集めは “ 相場の名人” と騒がれ、陽和不動産(丸の内界隈の大地主三菱系列の不動産会社)の膨大な含み資産に目をつけた買い占めは、まだ青臭い株屋小僧の目には明治生まれの物凄い人物に感じられた。 山一証券の大神一社長の仲介で買い占め劇が一件落着した事は当時の語り種であった。
その後の買い占めは渋沢倉庫・北海道硫黄・秩父セメント・養命酒などを仕掛け、 昭和三十一年のマミヤ光機・三井埠頭・わかもと・と連続的な買い占め戦争は話題を独占し相場の動向は注目の的だったが、結果は大暴落、大失敗と完全に再起不能の窮地に追い込まれてしまった。
ブーちゃん(合同証券の佐藤和三郎社長)も、此の買い占めに参加した一人で、大量な注文を受けていたらしく、社運を賭けた手張りと、受け渡し不能玉の清算は、完全に行き詰まり、山一証券の救済でケリを付けたようだが、此の大打撃は兜町を風靡した話題の名物男の人生に止めを刺し、二度とシマに戻らず、手に入れていたゴルフ場経営に専念し、しばらくたってからの病は、長いぼけ生活で毎日見舞いに行く “茂どん” すら誰だかわからない ボケ に見舞われ、寂しくこの世から消えて逝った。
藤綱久二郎の最後も寂しいものだった。 古びた王子の都営アパートに住む女の所の仏壇に眠っている事を聞き、 友人の新聞記者と線香をあげに行った時の、あの暗い複雑な嫌な雰囲気の気持ちは忘れられない。 相場の世界の厳しき習いは “勝てば官軍負ければ賊軍” 勝負の世界の悲哀は常に渦巻き続ける非情な世界である。
重要文化財『大手鑑』の怪
昭和二十年代から、三十年代前半頃までは、A証券会社で買った株が短期間で値上がりするとB証券会社で売却し、売却代金を売却日の即日に受渡し決済して呉れる所を選び、自己資金を使わず(持たず)に利益を得る売買が存在し、値上がりすればスムースに受渡しを完了させ、利益を得るが、騰がらずに値下がりすると損金を払わず逃げ出す悪質な輩の 『拳骨売買』 と称する危険な売買も存在し、此れを得意としていた自称トップ情報屋の木原祐記某が港区の質屋の質札を持って昭和三十九年の春(営業所長時代)に小生の所に尋ねて来て 「皇室に関係の有る青蓮院東伏見慈治門跡秘蔵の重要文化財が質流れしてしまう身受け(質出し)して呉れれば以前の借金弐百弐拾参万余円と質屋の身受けの五拾万円を合わせて一括返済する」 と云って来た。
半信半疑ながら株の事は危なくて話には乗れないが本物の旧国宝なら貸金回収の良きチャンスとばかり質屋に出向き、自宅に持ち帰って、早速、上野美術館に鑑定を依頼した所、正真正銘の本物と認定され、一安心し、自宅の物置に保管し、情報屋からの一括返済を待ったが、 音信不通ナシの飛礫どころか上野警察署の巡査部長が尋ねて来て横領事件の証拠品として押収 (41・4・14)されてしまったのである。
悪質男を承知で乗った古美術品の儲け話は、一瞬に砕けながらも、即座に先輩の神谷咸吉郎弁護士(後年日本弁護士会副会長)に相談し、 還付請求の訴えを起こしてからまもなく、この事件を聞き付けたサンケイ新聞社の記者が拙宅に訪れ入手の経過や重文の所在等縷々取材し、七月六日付のサンケイ新聞に大々的に “重文 『大手鑑』 はだれのもの” と 「話題のパトロール」 と題した紙面に実名入りで詳細な報道記事が掲載された。
反応は大きく、友人知人の問い合わせは殺到した。 先ず勤務先の藍澤社長に報告せねばと、社長室に事情を説明に行った所 「一流のセールスマンは株でお客に儲けさせる殊に専念してくれよ」 と優しく笑われ 「善意の取得者だから頑張れ」 と励まさ益々 “ 堅実無比有人情” の藍澤社長の偉人ぶりに感激した。
京都 「青蓮院」 所蔵の重要文化財 「大手鑑」 取得は一躍株式関係以外でも話題を提供してしまったので経過を聞く人が多くなった。 結末は翌年の六月十日、東京高等裁判所第十一刑事部(むのイ)第三八三号にて見事に仮還付決定がなされ返還された。
文化財の所有権登記を文化財保護委員会事務局に申し出て晴れて正式な所有権者として重文化財指定書の裏書きに小生の名前が永遠に記された。
★上記の書類は 『文化財保護委員会事務局』 から
正式な所有権変更処理手続きが完了した書類。
小生の所有物である旨の 『大手鑑』
『重要文化財指定書』 名前が裏書に記された。 押収目録書
重要文化財 『大手鑑』 186葉の中の一葉
既に情報屋と代物返済の念書も交換済みしての解決に文化庁も肩の荷が降りたと喜ばれた直後、買い手が次々名乗り出て五十万円で入手した 「大手鑑」 に 一千五百万円(韓国人)を初めとして高価額の引き合いが殺到して来たのだから流石に驚いた。
重要文化財の売買は文化財保護法で許可なく勝手な売買は禁じられているので、まず売買の意向を文化庁に打診し、 韓国人への売却は国外流出の恐れがあると云われ、 千葉県本将寺住職安永辯哲の強い嘆願を伝え、京都青蓮院門跡東伏見慈治直筆の署名捺印の 「国宝重要文化財売渡申出書」 と本将寺住職の署名捺印をもって、今日出海長官の許可の下、 寺の宝にするとの甘口に乗り、馬鹿みたいに気っぷの良い半額の七百五十万円で譲渡した。 証券会社社長の給与は五十万円程度の頃です。
その後の 『大手鑑』 の行方は解らないが再び 『大手鑑』 の怪は文化庁の係員の話では安永によって事件を起こしたらしいと知らせが入ったが、小生の関知する所ではない。 ただ二年間で十五倍に化けさせ美味しい思い出だけが残りほくそ笑んでいる。その後、陶芸家にはよだれの出る 『尾形乾山』 の面茶碗や、二千年前の復元高麗茶碗や、花瓶の売買の儲け話はすべて相手側から飛び込んで来たのも此の頃のお話しだ。
牝狐
この直後に現れたのが小生の親しい友人の三鬼陽之助 (みきようのすけ:1907年8月3日~2002年10月5日)) (日本の経済界の評論家でご意見番的な存在で三重県生まれ。
法政大学法学部を卒業後、ダイヤモンド社入社し経済記者となり、その後、東洋経済新報社「投資経済」の編集長などを経て1953年には、財界研究所を設立し、社長に就任。雑誌 『財界』を創刊し、戦後の 「ご意見番」 とも呼ばれた偉人が、 『証券レポート社』 の記念パーテイで祝辞を述べた後、主催者の安藤保社長と三人で祝杯を飲み交わしている所にニッコリ笑みを浮かべ水割りを運んできたコンパニオンの新井弘子がいた。
どういうわけか、誰から前もって話を聞いて来たのか、大勢の中、小生の所に 『株を買いたいからゆっくり時間をつくって下さい』 と云ってきた。
彼女の家は青山の高台にそびえ立つ当時はお城を連想させる高級マンション 『秀和レジデンス』 に住み、その振る舞いは気品あふれた優雅さを漂わせていた。
初めて訪問した彼女のマンションに入るや “瞬間” 完全にこちらが飲み込まれ虜(とりこ)になってしまった。
彼女の美しさにポ~となった男はしまっが悪い!と云うがまったく本心を失い夢気分で彼女のペースに入って行った。 その後は夢遊病者のごとく彼女に自由に操られ、人形のようになっていた。
常識はずれの行動はまだ一般家庭には贅沢だった三十万円の冷房機を設置してやり、食事は銀座・赤坂の超一流などに食べ歩き、湯水の如く財布の紐を緩め札束をばら撒き彼女の知り合いのクラブにも出入りしていた。
この彼女との交際の一部始終を知る先輩に「あの女は牝狐(めぎつね)だから気を付けろ・・・」 「目を覚ませ!」 と口酸っぱく忠告を受けていたが、のぼせた頭は冷めることもなく彼女の弟を証券会社に就職させた。
謄本の提出で初めて彼女が韓国人だった事が判明したが、全く動揺せず、会社の役員は外国人はだめだと断られたが、自分が保証人になるから・・・と強引に就職させた。
更に彼女が銀座で安いクラブの売り物件があり経営したいと云うのでポンと二百万円(新入社員の給料2万円以下)を渡して開店させた。
商売上手の彼女は瞬く間に店を広げ『紺』(コン)と名づけ店舗を広げた。 フランス語で “コン” と発音する「意」は活字で此処にかくわけにはいかない・・・ 。
この店は銀座のクラブとしては超豪華な装飾で飾り、客種も一流の政界・財界の方々が来店し、総理大臣になった中曽根康弘を始め財界の大物や三洋証券の二代目(土屋陽一)坊ちゃまも常連客として訪れていたようだ。
壁には有名なマンガ家の本物の絵が品良くあちこちに飾られ雰囲気は抜群で大繁盛だった。 こうなると出資した小生などには振り向かずに、出資金の配当も返済も無視!一銭も戻ってこず、手も口も出さぬ間に、そして、それどころか結婚の事も一言も話も無くいつの間にか来客の資産家男と結婚し、馬込の豪邸暮らしを決め込んだのである。
忠告をして呉れた先輩に「あれだけ牝キツネなんだから熱をあげて後悔すると言ったじゃないか」と笑われたが “ 男の甲斐性で後悔はしない " と嘯き(うそぶき)見栄を張り通した。
牝狐の弟も恩など微塵も感じず顕さず、同僚の証券会社の可愛い沼津の可愛い女の子と結婚し、会社を辞め、小生には連絡もせずに何処かへ消え、その後の消息は知る由もない。 此の道はずれた二人は今頃どうしているか・・・ ? 全くわからないし探す気にも成らない。 姉弟二人の末路はきっと惨めな人生を辿っている事だろうと想像すると身の毛がよだってくる。
銀座7丁目のクラブ街 三鬼陽之助 小生
私設秘書
反面、牝狐に重複して現れたのがふぐの産地、下関の親元から離れて高島屋で働く伯母(母親の妹)を頼って三軒茶屋に移り住み小生の机の前でバリバリ仕事をするしっかり者の安藤知衣子孃がいた。
何事も安心して相談事を聞いて呉れる人との印象を与えていたらしく、 何かあると煩いぐらい話しかけてきたが相談に乗るよりむしろ聞き役だった。
小生は不思議と可愛い妹感情で接し、仲間の同僚たちとの会食に誘っては説教と自慢話しを重ね、親しみを深めて行った。
彼女の部署は外務員の売買伝票の注文を受け、市場に発注する仕事で手際よく会社の評判も良く、同じ部署の同僚達を呼んでは竹町のバーで勝手に遊ばさせたり、人手が足りない時には手伝って貰ったり良き話し相手になっていた。
昭和四十四年十月二十二日(水曜日)仕事が終わって大勢でバーに集合し騒いだ後、巷では反戦デモの影響で危惧していた国鉄JRが全面ストに突入し、交通は完全に止まり足が奪われた日、遊びに来ていた七名のうち四名の女子社員を自宅まで無事に全員送り届けた帰り道、赤信号で停車中の小生の後ろにドスンと自動車が追突して来た。
自動車事故に合ってしまった。 相手の運転手はハードな仕事で疲れ、居眠り運転が原因で、こちらの車は大破し、その衝撃で首に激痛が走り三十三日間、入院した事があった。
この時、知衣子孃は責任を感じたのか、住まいが近かったのも手伝い、翌日から会社での仕事を終えてから帰りには必ず株の新聞とその日の商い状況を毎日せっせと運んで呉れた。
入院中にも拘わらず病院では首の痛みを耐えながら点滴を打ち、 短波放送で相場市況を聞き、仕掛けた株は見事に当たり売買は繁忙。入院中にも拘わらず月収百万円突破を稼ぐ事が出来た。
大助かりだった。其れがきっかけではなかっただろうが退院後は運転手役までやってくれて、そのうえ竹町のバーの人手が少なく困た時には高島屋勤務の伯母チャン共々応援営業を続けてくれた事はまるで公私両面の私設秘書、救いの女神が出現したみたいだった。
その後、伯母チャンと同じ高島屋で働く、歌舞伎役者の松本幸四郎似の真面目な部長と縁有り結ばれ、練馬の広大な土地に家を建て、双子の赤ちゃんが生まれた時は驚いたり喜んだり、現在もご主人に守られ幸せな人生を歩ゆんでいる事は嬉しい限り、今でも福の神、救いの女神に当時のお礼と共に感謝をしている。
小宮山英蔵の野望
当時のゴルフ会員権は三十万円から五十万円程度の相場でしかなかった時代だったが三笠宮殿下を特別顧問に掲げた平和相互銀行の小宮山英蔵がぶち上げたゴルフ場百コース造成すると当時、夢のような大構想をぶち上げた“太平洋クラブ" (昭和四六年五月設立)の 発売はうたい文句 「二年後には二千万円」 と書かれたパンフレットの魅力に引かれ、当時では破格の高額縁故募集(四百八十万円)にも拘わらず、此処の会員権を取得したのも此の頃だった。
当時、大量に株を集め値上がりを狙っていた小宮山グループの傘下に収まった東洋端子の買い占めの先頭に立っていた時に接近して来た元吉田茂の私設秘書だった常務(井上直明)と知り合い、その口利きで 先ず株よりゴルフの会員権で儲けよう!・・・ と小生の友人や株のお客様たち二十八名を株の一部を売却させ道連れにメンバーになったのだった。小宮山英蔵の野望はデッカク日本で初めての夜間銀行を打ち出したり、百コースのゴルフ場、一兆円募集の掛け声は “怪物” “金融界の異端児” と騒がれ、事業欲旺盛な手腕は大手銀行でも一目置いていた実力者だつた。
それだけに欲に群がる連中から一瞬にして彼は莫大な資金をかき集め世間を驚かせた。
当時は 「土地・株・会員権」 お買わなきゃ金は儲からない! といわれた時代。
ところがバブル経済は資材の高騰やゴルフ場の建設規制が重なり計画が挫折し、あわせて不鮮明感が表面化してきた。
特に兜町関係者が多く購入し、証券取引所の地主の平和不動産では分譲地開発(千葉県流山)の目玉として抱き合わせ販売を企んで大量(100口)な思惑買いが論議を呼んだ事も有った。 バブルがはじけてバブルの咎めは一国を襲い、株も土地も、当然会員権相場もお定まりの大暴落・・・
が、不思議な裏契約が有ったらしく会員権相場下落時に総武土地開発(小宮山グループ)関係が七百五十万円で引き取ったらしい話も入って来た。
夜間銀行では夜の蝶の資金獲得戦争に挑み、太平洋クラブで一兆円をかき集めの戦略は普通銀行昇格に標準を合わせ、更にでっかい構想を描いていたようだが、彼は突然急性心不全に倒れ急逝(昭和五四年六月享年六六歳)し、その後の悲惨なバブル崩壊劇のドラマは見ずに逝ってしまった。 むしろ野望を実現出来ずの死は、彼にとっていかばかりかと想像すると、想定外の絵図にむしろ突っ走らなかったことが良かったのではないだろうか?
彼の死後、小宮山一族と太平洋クラブ側の醜い紛争が表面化し、激化し、平和相互銀行の消滅に突き進んで行きデッカイ 『夢』 は破れてしまった。
富士大石寺顕正会
“牝狐”と“女神”混合の昭和四十五年の春、七十二歳の母親が亡くなり空虚な気持ちでいた時、明光証券の取締り重役の椿昭氏に「大事な話がある」と誘われ、生まれて初めて仏法の話を聞かされた。 「宗教には正邪があり佛は二人も三人もいる訳がない・・・ と。
御本佛は日本の国から出現あそばされた日蓮大聖人お一人で御魂まします御本尊は富士大石寺に秘蔵厳護されている。
滅後の御遺命(遺言)は『国立戒壇』の実現で創価学会はそれを歪曲し、利用し、会員を騙し、野心と名利は一国を欺むき狂奔している。 正しく如説修行の実践をしているのは妙信講 (現富士大石寺顕正会)だけだ・・・」 と熱っぽく話され圧倒されながらも抵抗なく入信した。
この頃になると株式相場の動きもやや活況が出て来て値動きも激しくなって来た。 その一方で、仏法の話を聞く数ヶ月前の自動車事故の後遺症もなく仕事に精進し、事故の事も忘れかけていた時だった。
入信後、保険会社で進めていた示談話が相手側から突然たずねて来て示談書と一緒に百万円の小切手を持って来た。
破損自動車一切の修理費用の他に三十三日間入院の補償として受け取って呉れと言って来たのだ。 稼ぎ捲っていた時の百万円は一カ月間の給料 (一般社員の給料は五万円以下) で本来は鼻息荒い自分も妙信講に入信し『大欲は大損に通ずる』と聞いていたので簡単に示談に応じた所、 其の一カ月後に追突してきた相手側の “大きなチンドン屋”と噂されていた 『ベストライン社倒産』 という毎日新聞の報道記事を見て、補償相手の会社が潰れた事を知り信仰のご守護を戴いたと感激したものであった。
顕正会の主張は日蓮大聖人のご遺命は仏国土建立にあり、 『国立戒壇の実現』 とご奉公している団体で、創価学会も初代牧口、二代目戸田も、此れを唯一の使命としていた。
勿論、創価学会三代目の池田大作も当然の正論を 「唯一創価学会の大目的・使命」と叫んでいた。
ところが言論出版問題で藤原弘達に攻められ、国会喚問を恐れ、政治野心と恐怖心から、一期の大事、ご遺命を放棄し、共産党や評論家の責めを逃れる為に、悪計を企て、真面目に信仰を貫ぬこうとする会員を騙し、まやかしの正本堂をご遺命の戒壇と偽り、会員から三百五十億円もの巨大資金を掻き集め、俄に建てた欺瞞の正本堂の謀りを図った。
顕正会はこの謀り、池田大作の陰謀を粉砕せんと立ち上がった団体で、既に此の正本堂の狂惑は露見し、思議を絶する現象が現れ、巨大な化け物のような狂惑の殿堂、正本堂は粉砕、破壊された。
其れでも今尚、池田創価学会は懲りずに悪行を重ね、大金をばら撒き、勲章などを買いあさり、悪質な仏法破壊の謀略部隊を組織し、無知な会員を道連れに一国大衆を欺き騙し続けている。
池田大作こそ佛法の破壊者、犯罪集団、国賊、吸血鬼 と喝破し、池田を責め続ける一方、池田に媚を使った宗門の堕落をも責め、職業坊主化した腐敗の僧侶を諌め、一国に向かっては 『日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ』 と、迫り来る大災難を前に大衆救済に大前進をしている。
すでに学会・宗門との戦いは、悪党同士の仲間割れ、修羅と悪竜の合戦となり、罵り合い、罪をなすりつけあい、世間の物笑いは正しく仏法破壊の咎め、罰と顕れて来ている。
それに反して顕正会の前進は益々強く大きく弘布の潮流は高まり仏弟子の眷属が集い来たっている。
以下は顕正会の前進状況である
昭和32年380名 38年3000名 47年1万名 60年10万名
平成4年30万名 10年60万名 15年100万名
平成13年7月末現在の会員総数 80万8539名
平成20年2月末現在の会員総数 125万4962名
顕正会資料室 http://kensho.main.jp/
「大聖人に帰依しなければ日本は 顕正会の浅井会長
必ず亡ぶと」と喝破した一国救済
の著書
職場の移動
昭和五十四年、田林証券の現役重役武田千之助 と柔道の先輩 小島専一両氏から是非当社に移って来て欲しいとの話が来た。 十四年間お世話になつた藍澤社長の重恩に送られ小粒ながら威勢の良い田林と関西のやり手ナショナルが合併した直後の会社に移る事になった。 兜町人生最後の仕上げに邁進しょうと決意し職場を移動したのである。
田林証券には多くの武将が存在し、ナショナル証券にも東京進出に際した情報収集の将来を嘱望される立役者もいた。然も松下幸之助とパイプの太い関西では際立つ業績を挙げていた会社との合併で創業者は『日本一の証券会社』を目指していた会社だっただけにバブル崩壊後の苦難期の到来など想像もせず小生は意気揚々と移ったのだ。
時はバブルの全盛期で仕手グループ盛んには蠢動し、街金業者をクッションに巧妙且つ大胆な強引過ぎる買い占め劇や株価操縦?凄まじき頃、 兜町の必要悪と云われながらも次々仕手株は乱舞し、当局の監視規制効果は現れず、その網をかい潜る千軍万馬の善悪入り交じった武将達の活躍場は凄まじかった。
片玉一方通行商いの鉄砲屋・解体屋と云う怪しいきわどい輩の注文も増加し、その銘柄の株価変動も激しく動く『仕手株相場の時代』 が到来して来た。
● 松下幸之助の生涯 http://panasonic.co.jp/company/history/person/
★ 鉄砲 (てっぽう)商い・・・悪質な顧客の商い方法。「鉄砲商い」ともいいます。 最初、上手く証券会社に仮名口座を設定し、1000株2000株の小口の取引を行ない信用をえたのち、仕手株などを5万株、10万株といった大口で発注する。思惑通り株価があがれば、ちゃんと清算するが、逆に下がってしまった場合は、そのままドロンという手口のこと。 買い注文を出すと同時に、よその証券会社で売り指値をしておけば、こっそりと高い値段で売却することも可能。 これは、もちろん犯罪行為です。
★ 「解体屋」 まともに市場で売り出せば、自分の売りで株価が下がってしまう・・・、資金繰りに困った・・・・ 至急資金がほしい・・・ このような時に登場するのが解体屋です。解体屋は時価より割り引いた額で株券を買い取ります。 100円以下のボロ株は時価の5掛け~7掛け、優良株なら8掛け~9掛け(解体屋の対象になることはまずないが) ここからが解体屋の腕の見せ所?投資顧問などを営む仲間や株式評論家、新聞記者などにお金を払って情報操作を行う?思惑通り株価が騰がりだせば、投資顧問と称する免許も無い不良情報屋?などが顧客に高値ではめ込み?悪質な評論家や不良新聞記者を金で篭絡させ、ダボ情報を書かせ?その情報を読んだり聞いたりした善良な?強欲な?記事を読んで飛びついた連中にはめ込み罠にかけ、売り逃げる。悪党達は双方からバックマージンを貰いダブルの儲け犯罪行為。しかし、どの銘柄か、どれが解体相場か・・・見分けるのは難しいが未確認情報だが、倒産した○○自転車などはそのような噂が流れていた。
誠備の武将
大沢証券から独立して森下商事と云う兜町では固い株式金融をやっていた父親が亡くなり伜の安弘と妹が後を継ぎ営業していた事務所に仲間と待ち合わせをし伺った時、大きなカバンを片手に持って入って来た男が居た。森下安弘が “凄い男" と紹介された男が間もなく兜町を揺さぶる仕手本尊 「誠備グループの総師」 と騒がれるようになった加藤嵩だったのだ。
彼は森下から株券を受け取り、すぐに出て行ったのでさして話もせず、気にも止めず記憶から消えて居たが黒川木徳証券の友人から 『うちの会社に凄い奴が居る。 今、宮地鉄工を大量に買っている。今、買うと面白いぞ・・・ 』 と云われ注目していた所、株価は直後からうなぎ登りの大暴騰した。
翌年、大貫運転手が仕事の途中で銀座昭和通りの歩道橋下で一億円を拾った直後の八月にはこの宮地鉄鋼が二千九百五十円まで急騰したのだからたまらない。
当然、兜町では大騒ぎ・・・ チョーチンをつけての売買は多くのお客に儲けて貰い感謝されたのは当然であったが、流れてくる情報は誠備の強引な吊り上げ相場に地検特捜部が動いている? とか、金融クロス話から野村証券筋の誠備潰しが始まった? とか、 多くの証券会社では既に要注意銘柄として売買を自粛し始めて来て、雲行きが怪しく揺れ動く株価の動向に注文を、危険な銘柄の売買注文は受付けないと云う証券会社が続出した。そのため出来高は縮小し、株価は下落し、大量の注文を扱っていた証券歩合外務員は浮き足立ってきた。更に加藤逮捕報道が出たのだからたまらない。
急激に出来高減少に加え、株価は大暴落を演じ、高値買いの株式の決済は受渡し不能の事態となり、宮地鉄鋼株の売買を扱っていた証券会社や担当営業社員は深刻な事態に発展し、悲惨な悲劇が湧出した。
曾ては真面目に働き着々と資産を作り家庭を守って来た千軍万馬の武将と言われた人々も加藤の破綻で被害を被り人生を狂わせた友人が含まれていた事のやる瀬なさには心が痛んだ。
果たして仕手戦を挑んだ誠備を責めるのか、黒い霧に包まれた兜町の資質を責めるのか・・・、誠備潰しを企てた資金提供の黒幕を責めるのか・・・、それとも一緒に踊って注文を受けた友人が悪いのか・・・、加担した多くの利鞘を稼ごうと集まった地場スズメの連中を責めるのか・・・、注文を許可した証券会社が悪いのか・・・、摩訶不思議な株の世界の出来事には答えは出ない。
唯、個人的には彼は相場に取り憑かれながらも必死に兜町の偏見に挑戦を挑み、勇ましく戦場に躍り出た現代の武将の相場師だったのかもしれない。 ただこの渦に巻き込まれた連中は巻き添えを食らった被害者で、加藤を褒め擁護するような表現は感情を逆なでして恐縮だが、善悪論を除外し、別の角度から見れば 「兜町の救世主」として兜町の歴史を刻んだ武将の姿だつたのかも知れない。
兜町の救世主として今でも地場筋では人気が高い加藤氏
投資ジャーナル
一方、投資ジャーナルグループの総師中江滋樹の出現も凄まじかった。 大胆な甘い嘘で固めた誇大広告に群がる欲深い投資家たちをから五百億とも一千億とも言われた資金をかき集めた腕は驚きだが、髭面のカリスマ男を兜町では “株の天才” と囃す愚か者まで出現していたのは情けない限りだ。
金集めの手法は一時七百人近いといわれた素人社員を集め徹底した電話勧誘攻撃をかけさせ会員を集め、甘い言葉を連発したのだからたまらない。 群がった会員の中には政界・官界・経済界の大物や芸能人もいて一流ホテルで気勢を揚げた独特のカリスマ性ハッタリの演出には皆飲み込まれ夢遊病者化してしまったと聞いた。
あぶく銭を集めた中江の豪遊ぶりは裁判記録を読んで驚いたが、赤坂の芸者遊びに狂い興じた事や、タレント倉田まり子には豪邸をプレゼントしていた。 欲に目が眩むと見抜くことが出来なかった会員の中には本気で億万長者になれると真剣に思った者までいたらしい。 相場取引は法令違法行為を繰り返しその集金力は物凄かった。
此の悪行は何時迄も栄える事は無く終に昭和五十九年八月に強制捜査が入り翌年の六月十九日、ついに中江と幹部が逮捕された。 この逮捕の前日には、老人を狙い大金を集め路頭に迷わせた罪は社会問題化していたネズミ講 『豊田商事』 の水野一男会長が自宅マンションで窓から侵入した男に、しかも大勢の報道陣の目の前で劇的に惨殺された衝撃事件があったばかりの翌日なので、兜町雀たちは吃驚仰天した。
中江の刑期は懲役八年の実刑判決(求刑十二年)だった。 この男は決して千軍万馬の武将や相場に命を賭けた相場師の面影は無く小生の目には詐欺師ペテン師の姿しか見えて来なかった。
● 関連サイト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E6%BB%8B%E6%A8%B9
● 会計顧問と推奨株の紹介と会社分析記事を書いていた山根純氏の証言
関連サイト http://ma-bank.com/item/108
● 関連サイト http://ma-bank.com/subcatid/12
2004-08-31 ある相場師の想い出 中江滋樹
2004-09-07 月給一億円のサラリーマン
2004-09-14 「スケコマシ」考 -その1
2004-09-21 「スケコマシ」考 -その2
2004-09-28 「スケコマシ」考 -その3
2004-10-05 「スケコマシ」考 -その4
2004-10-12 一億円を捨てた男
2004-12-28 料亭「川崎」のおかみ
2005-01-04 倉田まり子事件の真相 -その1
2005-01-11 倉田まり子事件の真相 -その2
2005-01-18 倉田まり子事件の真相 -その3
2005-01-25 ペアシティ・ルネッサンス・高輪
2005-12-27 投資ジャーナル事件の真相 -1
2006-01-10 投資ジャーナル事件の真相 -2
2006-01-17 投資ジャーナル事件の真相 -3
“愉快な応接間”
『ウォール』
昭和五十八年七月、友人の紹介で六本木の東京ベット地下一階に家賃五十万円で二十六坪の居抜き設備の整ったクラブを借り受け、アメリカのウォール街を意識して “愉快な応接間” ラウンジ 『ウォール』 と命名し、気楽に日本のウォール街(兜町)の武将たちの社交場として華々しく開店した。
飲食店の経営は既に御徒町竹町に此の時も営業を続けており自信が有ったのでまず会社から二重就業の許可をとりスタッフを揃え、オープンセレモニーも多くの招待客を招き行いお土産には粋な高級下駄をご来店者の全員に差し上げた。 麻布警察の関係者と地元の有力者、そして千軍万馬の武将達大勢がお祝いに来て下さった。
初代ママは兜町の後輩の妻で源氏名 『綾』 が仕切って呉れたが、体調を壊し二代目ママ 『祐子』 に変わり、かしまし娘の正司歌江や藤圭子と芸能人も多数遊びに来るようになった。 プロの経営コンサルタントの指導宜しく六本木族を十分満足させ、フイリッピン男性のギターリストやプロの司会者の評判も良く、加えて兜町の応援ホステスの人気は上々順調なスタートであった。
幸い兜町の相場は一部の仕手株を除いて値動きの少ない閑散相場で、先に触れた誠備軍団の株集めや仕手銘柄が動く程度の相場で、来店者の話題は専ら“誠備は兜町の救世主”“いや必要悪だ”“潰すべきだ”とか『誠備の客には小泉純一郎・稲村利幸・玉置和郎などがいる』と見て来たような話題が多かった。
確かに此れらの噂が直後にマスコミメディアでも報道され、九月二十日の公判で黒川木徳証券の第二営業係長の証人尋問の中に有田喜一(元防衛庁長官・文部大臣)の名前が飛び出したのだ、福田派秘書会の纏め役で誠備投資顧問室社長の藤原三郎氏の関係筋からその他複数の政治家は連想されたが加藤だけは最後まで一人も客の名前を口に出さず口の固さを褒めたたえる者も少なくなかった。
まさに “愉快な応接間” ラウンジ 『ウォール』 は兜町の密会所みたいに武将達の情報交換の場でも有ったのだ。
然し商売繁盛気と思いきやそこは素人経営の甘さで従業員の不正(仕入れの横流しや売上金の横領)と飲み代金の資金回収不能は表面上では解らず、イベイントのパターコンテストや、来店者のお得意の演歌などを聞き気楽に過ごしていた呑気男の二年間、朝の四時まで営業していていながらも楽しく早かった。
所が従業員のギターリストがちょくちょく出国し経営コンサルタントから怪しい 『運び屋』 ではないかと小耳に挟んだ時は動揺し正業を持つ小生が巻き込まれたら大変と即座に話を聞いた翌日 『ウォール』 を閉店した。
本格的バブル時代の到来
この頃になると国民全部が経済繁栄に酔い地上げが横行し、兜町の株価は高騰を続け銀行融資は湯水の如く無制限融資に走り、ゴルフの会員権迄高嶺の花が咲いて来た。
兜町周辺の土地は一坪一億円なんて言う声も出てきた。
台東区の御徒町近辺は一大宝石街に変貌すると噂が広まり、小生が経営する竹町のスタンドバー 「クラウン」 の辺りまでご他聞にもれず、ベールに包まれた地上げ屋が姿を現し、凄まじい地上げ攻勢をかけてきた。
小生が親から受け継いだ竹町の時計貴金属店とバーを開店している所までやって来た。
此処は小生の兄が戦争激しき頃(昭和18年)旧根岸区の店舗 「寶玉堂」として時計店を営んでいた父親の分家として、移転し、居住していた所で、東京大空襲で喪失した根岸のから家族達が移転し住んでいたところで、父、母、兄嫁、は死に、姉達は嫁ぎ、専従の兄も死に、兄の子は横須賀に嫁ぎ、小生ひとりが、証券マンの傍ら、バーと時計屋の管理をしていた。
以前から、何度も地主から「買ってくれ」と言われながら入居時は戦争の真っ只中で、戦火をまねがれたボロ家で、法的には借家で家賃を支払っていたのだが、改造に改造を重ね、実質的には柱を除いたすべてを丸山家が修繕した家で、地主も家主も変わり、町会長をしていたメッキ屋が買い取り、所有権者は死に相続を受けた小生の後輩が継承していた。
この後輩と小生と地上げ屋で権利関係の係争が始まり、結果、90%の権利を小生が獲得し、10%を地主・家主に分配すると云う結論を出した。
戦前の家賃無料! 戦後は二階建ての一軒屋だが、当時は200円~2000円と形式的な賃借関係を維持する為?の雀の涙の家賃を昭和30年まで支払っていた。
典型的な居住権九割地区の家屋だった。 地上げ屋は此の周辺一帯に目を付け地上げに狂奔して来たのだ。
借家人名義は兄で、地上げ交渉が始まったが、娘は既に結婚し横須賀に住み、交渉途上兄は心臓病で入院、六十二年に死亡し、小生は地上げ対策?で既に養子縁組をし、相続権を小生が持っていた。
そして営業権利継承の為、兜町の仕事を終え時計宝石の修理と販売営業の登録(物品税登録業者)の免許と習い覚えていた簡単な時計修理技術をもって毎日三時間程度必ず店を開け営業活動を持続していたので地上げ屋交渉が始まった。
地上げ屋はあの手この手で小生に近かづき、近隣の地上げの依頼をし、連日、料亭接待から高級クラブ、更にはお土産攻勢と湯水の如くあぶく銭を小生に対し提供してきた。物凄い買収劇が展開された。
土地も家も他人のもので戦前から住んでいたという居住権者と言うだけで、長屋の家賃は交渉開始時は三万円。それが、二軒長屋二十坪分での買収価額が、合計九千六百万円の補償金で昭和六十三年の秋に決着した。
その三年後に地上げ屋は倒産!。 小生は平成元年の長者番付に名を連ねたバブルのウソのような狂った時代のお話しです。
★1989年、三菱地所が約2000億円で購入したロックフェ ★地上げ屋が坪1500万円で
ラー・センター(ニューヨーク)。当時の日本企業による国外 買収された家屋 (右写真)
不動産買い漁りの象徴となったバブルの象徴(左写真)
悪徳情報屋
バブル時代に加速を増した要因は幾つもあるが、その合間をかい潜って会員を集めて情報収集能力も分析能力も無い怪しい情報屋が美味しい話を並べ立て、株式関係の新聞に広告を出し賑わし始めていた。 ちなみに此の情報屋には二つのタイプが有る。
(一) レポートを発行して一定の会費を徴収し情報を売る会社。此れらは決まって兜町界隈のビルの一室に事務所を設け、著名な株式評論家もいれば自称株式評論家・元証券マン・元新聞記者や株で大損をし投資家崩れもいる。 特徴は自力で企業分析や情報収集する能力を持っておらず人脈と経験豊富な知識を基に種々の理屈を並べ会員にその情報を売る株大好き人間で、比較的一生懸命会員に儲けさせようとする意外と良心的な小規模の奉仕タイプ。
(二) (一)に相対する如く一定の銘柄の売買を薦め、買わせては売買の自由を拘束し、株価吊り上げの為の会員を道具にするか、若しくは始めっからその資金を流用 (詐取)の道具にするか、会員への奉仕は考えず甘い誇大広告を新聞紙上で宣伝し、強引な勧誘方法で事務所も豪華な設備を整え、高額な会費を集め儲けさせて呉れるのではと美味しい話を会員に錯覚させる設備も規模も以外と大きいのが特徴。
然し、昭和六十一年五月二十一日に此れらの誇大広告や手口が巧妙かつあくどい商売でトラブル多発して社会問題化した為、情報屋(投資顧問業者)の乱立に歯止めをかけ封じ込める為の法律が成立された。 六十一年十一月二十五日から『投資顧問業法』が施行され、以後、悪徳商法は出来なくなっている。
情報屋(投資顧問会社)設立には大蔵省関東財務局庁への認可が必要になり、しかるべき書類を交付し、幾つもの制約と罰則を設けている。例えば契約は事前に相手側と書面の交付を義務づけ、十日以内なら解約が出来、虚偽広告は懲役若しくは罰金、名義貸しは営業禁止、など当然の厳しい規制をし登録に際しては五百万円の供託金が必要になった。此れでインチキ悪徳商法は出来なくなった。以下注意点を纏めてみた。
★ 情報収集・企業分析等の専門的調査研究が、どの程度出来か否か。
★ 会員客に対し何処まで奉仕精神が有るか否か。きちんとした資料を発行しているか否か。 ★ 会員の会費や報酬金の契約は高いか安いか。理屈を付けて高額な要求はしないか。
★ 強引な勧誘攻撃は無いか。会員のニーズにどれだけ親切に答えて呉れるか。
★ 当初の契約から段々エスカレートした変更契約を言い出さないか。
★ 派手な広告を出したり、個人財産を必要以上に聞き出そうとする事は無いか。
★ アンケートやクイズを出したり、進呈と称して必要以上の何かを送って来ないか。
★ 高い収益や確実な収益を約束又は保証をするか否か。虫の良い話をしないか。
★ 担当者が次々変更になったり、質問にどれだけ親身に受け答えして呉れるか。
★ 口約束は最も危険だが、例え口約束でも確実に実行するか否か。
★ 契約に際し資料請求をすると完璧な資料ばかり送って来ないか。
★ 頼みもしないのにやたら資料を送って来ないか。勧誘はくどくないか。
★ 利益が出ると直ぐに売らせ値下がりするとほって置く事は無いか。
チエックポイントは幾つもあるが投資に際しては完璧は無い事を先ず年頭に置事。 総合すれば常に自己責任を忘れず、環境の悪い時は欲を出さず見送り、相場の流れを見 極めてからの出動を心得る事が肝心。此れは証券会社との取引でも同じ事だが魔物と女神が同居する変幻自在の相場の世界『大海に飛び込む勇気』と『虎穴にいらずんば虎子を得ず』の格言を胸に秘め、戦場に赴く武装が必要である。此の覚悟なき者は相場に手を出すべきではない。
向島芸者
バブル経済が弾け株価は下落に次ぐ下落ばかりでは無かった。 小生の狙っていた(6339) (3551)の二銘柄が短期間で大化けしたのです。 曾て新潟の本荘社長と組んで東洋端子の株集めを開始中、藍澤良雄社長の本宅(大井町)に訪問し、小宮山英蔵の野望と戦略を入手した資料を持って密かに買占めグループ参戦の相談にいった事があった。
社長自らブランデーを運んで来て下さり徐(おもむろ)に 「昔と違って今の証券会社はお客に儲けさせるのが商売==そんなに良い株なら客に薦めて儲けさせれば結果自分の利益になるじゃないか==」 と堅実無比の秀才の助言に目を覚まし、常に座右の言葉として頭に刻み込んでいた小生は此の二銘柄を徹底的に自分の客に説明し買って貰った。両方とも短期間で四倍強の急騰を演じ八千万円強を儲けた客のご招待で向島三業の料亭に行った。
向島は赤線廃止と同時に吉原や鳩の街の女郎達が大勢流れ、芸を磨き芸者・雇女(やとな)・ 酌婦に変身し栄えている花街で、昔の良き面影を残したお座敷が多くとても洒落た料亭ばかりだ。旦那(誘ってくれた社長)と小生の二人で五人の芸者の歓迎は丁度 『紀伊国屋文左衛門』 の郭遊びを連想させる馬鹿騒ぎに興じてしまった。
実はお座敷に来た姉さん芸者は元 『鳩の街』 で馴染みの女で小生のスタンドバーにもチョコチョコ来て呉れていた芸名を『ぽっぽ』と名乗っていた。既に日本舞踊の名取りに成り小料理店も経営していた。お座敷のお茶っぴきの時や、料亭の客を二次会に誘う為のお店らしい。招待して呉れた社長との付き合いは結構長く深い関係らしく、小生とは知らずとは云え遠っくの昔から○○兄弟だったのだ== 年増になっても器量はまだ良かった。
向島の見番
嫌みの無いエロ話しは冴え、二十数年振りの偶然の再会に華を咲かせのは当然、若い子までつけてくれたのには恐縮したり喜んだり・・・。帰りに貰った『色道禁秘抄』は秘本で其の一部を要点のみ極少々ご披露させて戴こう。
== 自ら楽しむ自慰は元服前の子供の戯れで、和合共感性のない性交は禿げた年増女(娼婦)の手練手管の技巧に引っ掛かった味気無き戯れ。千早振り振り真のまじわいを最後まで遂げるのがいろの道。
== 色道練達の武士が問う 『愛欲を断つ事出来るか』 聖者答う 『色女の為に身を滅ぼし家財失う者数知れず、城も国家も破る欲望なり。此の色と欲に取り憑かれ断念難く至難の業。 色香に迷へば例え百人切り千人切の色豪も古今東西上下の隔たりなし。
== 色情少欲は君子なり、色情多いに発するには心臓腎臓強くして盛夏,蚊帳の中での夕涼み、夕べに寒き夜、炉端で燗酒を酌むとき禽獣の如く成る。
== 好色淫乱見分けの術は『眼中鋭く、髪は黒々艶が有り、顔色赤味帯び脂肪豊かで決気旺盛女は多情なり。 顔青白く、腋臭(わきが)、ソバカス有る女の陰門の臭気強し、口の大小が女陰の大小には比例的に非ず。 美感は五臓から発し、快美速遅は飲酒でも愛撫の手練手管でもなく多感の女人なら即座に妙境に達する。 亀頭を門口にあてがえば妙境に至りて悶絶す。
== 妙境不感女は貧血症か子宮疾患か才女・美人に多し。疾患症は吸引力逆に強く奥まで挿入せず子宝にも恵まれず病身なり。 美人 は同衾せず理性と美貌と自尊心が邪魔をし木石か石仏見たいに美快を押さえ、共感を捨て、男を厭し、仲悪い。
全くくだらぬ戯言に思えるが、相場の世界に言葉を置き換えると案外、意外に相通ずる 話に感じられ『ぽっぽ』ちゃんから貰った書物の障りを記して見た。 「女人(銘柄)を 選ぶなら先ず眼(地合い)を見よ」「九浅(目先小回り)一深(大幅狙い)」は如何。
野村証券出身の相場師
遠藤清吉は野村証券を退職してからファイナンス会社を設立し、派手な株集めでバブルの波に乗り 「肥後銀行」 「鹿児島銀行」 「東邦銀行」 「アイカ工業」 「マルエツ」 「トヨタ自動車」 「松下電産」 「平和」 など優良銘柄を大量に仕込み、莫大な資金を手に入れたようだ。
「あけぼの企画」 を筆頭に株式融資の幅を広げ、平成二年の仕手株が崩壊するまで彼は飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍し兜町界隈に話題をまいていた。
この頃、相場のリード役で有名になっていた、医師のあけぼの企画総師の田井光明とは既に密接な関係で遠藤は影の融資元と言われていた。 此の遠藤に強い影響力を与えた軍師役の松本文雄がいた。
松本文雄は昭和二十六年に野村証券に入社し、当時の奥村綱雄社長の連絡係だったと言われ、その後の社長、田淵節也の部長時代に頭角を顕し、出世街道を歩み、田口証券(現泉証券)へ出向され営業部長として剛腕ぶりを発揮し、その手腕は瞬く間に注目を集め、兜町雀達が競って動向をみつめていた。 実際、その成果はたいしたものでまさしく金をかき集める!勢いだった。
其の後、野村証券に戻り渋谷支店長を経て、一匹狼の証券外務員として中堅証券に転身した紛れも無い千軍万馬の武将の一人であった。
所が、昭和六十二年サイドビジネス経営でチョンボ(売春禁止法違反)事件を起こし味噌を付けてしまったのが彼にとっての失敗で取り巻き連中も彼を高く評価していただけに残念だったと嘆いた。
然し、この剛腕な松本の姿を見て学び、己の糧として成長した取り巻き連中は、流石は野村で鍛えた相場師として崇めていた。
確かに相場の張り方は常に野村証券の血筋を受け継ぎ、堅実な優良株に徹した成功者であった。 所が悪縁と言うのか縁有り付き合う事になった 『あけぼの企画』 のやり方は彼本来の “堅実” と言う文字を奪い、そして忘れ “朱に染まると赤くなる” ように悪魔に取り憑かれた見たいに欲望の塊がむらむら襲い、勝負の魔物の世界の渦にどっぶりのめり込んでいった。
恐らく堅実だった遠藤の胸の底にはあけぼのへの一抹の危惧感を抱きながらも抜け出せないシマ(兜町)に住み付く悪魔の招きを払拭出来ず魔力に取り憑かれてしまったのであろう。
遠藤の野望心は固い野村証券では物足りず退職しての独立は派手な株集めでバブルの波に乗り、かき集めた儲けは小生の及ぶ所ではなく、想像以上の莫大な利益を得ていた筈だ。
かき集め資金で兜町を牛耳るような快楽気分に酔いしれていたのではないかと想像するが、変幻自在の勝利の渦は一瞬にして崩れてしまった。 平成二年の仕手株一斉の大暴落劇に巻き込まれて行った。
先ず 『あけぼの企画』 の破綻が囁かれ、その影響は当然莫大な融資残を抱えて居る遠藤を襲い、共闘に似た咎めは直撃して来た。 噂は尾鰭がつき真実は解らぬが、兜町には常に存在する勝負の世界、 “醜い仲間割れ” の 『崩壊劇』 が始まる! と、噂が広がった。
その噂が現実となって現れ、追い討ちをかけるように暴落劇はとどまらず、資金繰りを圧迫し、窮地に追い込まれ? 噂は噂を呼び、暴力団に追いかけられて居る?・・・とか、其の他、言葉に言えぬ不穏な話まで流れて来た。 遂に、関係者から逃れるように彼の姿が見えなくなった事は事実で “蒸発” してしまったと街中、話題が駆け巡った。 知人によると約束をきちんと守る良い男と言う人もいたのだが・・・。
然し、破綻劇は容赦なく襲い、買い付け先の証券会社で受け渡し不能事件も含めて莫大な稼ぎは一瞬にして吹き飛ばしてしまった。? 彼の偉いところは関係者には絶対迷惑はかけない! 蒔いた種の尻拭いはきちんとする!と一旦は迷惑を掛けたであろうが、相手側に詫びと償いをきちんと誓っていたよう?で、むしろあけぼの企画の被害者だったのかも知れない。 それとも仲間割れの崩壊劇を演出した影の人物だったのか? いずれにしても相場の魔力に取り憑かれた咎めは厳しく恐ろしい。
ここに敗北の相場師は奈落の底に突き落とされて姿を消し、築いた富は一瞬に露と消え、一生どこまでも付いて纏わる 『罪と罰』 の重圧・・・ 相場師の末路は悲惨な結末が大きく口をあけて待っていたのだ。兜町に話題を振り撒いた彼も千軍万馬の武将の一人だったのではなかろうか。
被害者か自業
自得の共犯者か
『あけぼの企画』 と 『株式ファイナンス』 の破綻は株式注文を受けていた証券会社の担当者(外務員)に重くのしかかって来た。 株価の暴落は仕手筋の破綻を招くと共に注文を受けていた証券会社の受け渡しにも支障を来し、未決済の損切り勘定は破綻した相手から既に支払い能力が喪失した為回収する事は出来ない。当然被害を蒙つた証券会社は扱い担当者に責任を押し付けてくる。
いわく「事前の顧客調査を怠った」として外務員契約の条項を示し、会社の対応の失策を隠し、弁償に応じないと従来は身内の外務員を犯人扱いして財産没収(差し押さえ)の強硬手段を掛けてくる。いきなり蓄えた財産を奪いとる行為に出てくるのだ。被害を受けた証券会社は此の時三十数社だつたようだ。担当者の中には同情出来ない法令で禁止されている名義貸し仮名(関係の無い別人名)口座で発注者の姿を暗ます援護的偽装口座を開設していた馬鹿もいて厳しい責任を問われ、共謀者・共犯者と判断されても仕方のないケースも含まれ証券会社の反応は厳しく担当者を責め撒くって来た。
当時のバブル崩壊劇は遠藤・松本どころか四方八方に飛び火し、加藤や中江と関係のあった三和銀行の参与(角田尚生)も相場に手を染め銀行を辞職し行方が解らなくなっている。この角田と旧知の仲の英語の専門学校『森学園』の理事長(森喬伸)も若築建設の相場で止めを刺され破滅している。 銀座の金融業『富隆商事』の社長(下坂平雄)の失踪騒ぎは終に会社を倒産に追いやり絶望した妻は葛飾の江戸川に身を投げ入水自殺(平成元年十二月)を遂げた。一吉証券の外務員が京都のホテルでの首つり自殺は客に損をかけた貴い高い命の代償だった。千代田証券のお客が自殺したとか、大学の後輩で証券会社の次長に騙されたと遺書を残し自殺(同二年四月七日)してしまつた。
“穏やかであれ”と命名した平成突入のバブル崩壊の生々しい傷痕は株価の暴落さえ無かったら起こらぬ事件ばかりが相次ぎ起こっていた。冷静に果たして此の渦に巻き込まれた多くの悲劇の犠牲者も所詮は強欲に取り憑かれた盲者の咎めは果たして被害者なのか、それとも自業自得の犯罪の共犯者なのか・・・バブルの罪は重く深く他方面に広がって来た。
河口湖湖畔に
二千坪のホテル 『フラミンゴ』
夜学勤労学生の頃から共に大きな夢を抱き競争して来た武内明が材木屋からガソリンスタンドで働き、昭和四十年に本郷で 『ホープ』 と言うカーショップを開業したのは小生が歩合外務員として独立したのが引き金と成った。
サラリーマンは所詮月給取りで幾ら稼いでも同じ給料だ==働いただけの収入を得るには自営業を選択しろ==と曾てS男が小生に言った言葉を武内に言ったのが契機で独立のショップを開業しただが初めの経営は同業者の煽りを食らい失敗に終わり、知人の不動産会社で仕上げの商売を始めた。話は前後するが夜学生時代に大金を掴むきっかけを造って呉れたのが此の武内の兄で岩通の株式課勤務がいた。
当時株価は八十円前後の株価で額面(五十円)増資の失権株が結構発生し、其の失権株の権利を回して呉れる事になった。前以て会社で此の株を売却し、その代金で失権株を取得すると差額全部が小生のものになつた。 当時は消費税も無く売却手数料は堂々と自分の玉として売却すると社長が五十銭にまけて呉れた。 八十円で何回も売却しては会社から売却代金を先に持ち出し五十円の株をもらって来た。
自分の資金は一銭も出さずに株券を会社に渡すと差額は二十九円五十銭の儲けが入った。千株の受け渡しで二万九千五百円を一発で稼いだのだ。当時は百株売買単位だつたので失権株は百株二百株の権利放棄が殆どだったが合計六千三百株の失権株を戴き(月給二千八百円の時)一気に十八万円程儲けてしまったのだ。だから夜学にはフラノの背広を着て、蝶ネクタイを締め、中折れ帽子をかぶったトッチャンボーイの株屋小僧が誕生したのだ。
昔話はこの辺で、此の夜学の相棒が面白い物件を手に入れたので “河口湖でホテルを経営しないか” と来たのだ。 場所は富士山の麓、富士五湖の一つ国立公園指定の河口湖湖畔の一等地。 小佐野賢二の富士ビューホテルに接隣したマラソンコースの道路沿いだ。
道路沿いの派手な玄関アーチをくぐり坂の右側には三百人をいっぺんに収容できる野外バーベキューガーデン、左手には湖畔を一望出来るマリンテラス、五十メートル登った所がホテルの玄関ロビーで右奥が駐車場。和風洋風含めて二十七部屋八十名を収容出来、大風呂・サウナ室を備え、広々とし落ち着いたレストランは三十七インチのジャンボテレビ三台を置き、夜はレーザーディスクのカラオケと専用バンドの生演奏。プロの演歌歌手、万代宏(現キムヨンジャのジェネラルマネージャー)が営業部長兼夜の司会者。屋上には日焼けコーナー、バーベキューガーデンの横にはアンツーカーのテニスコート二面をつくり、特別貴賓室は役員家族の専用施設。
湖畔にはホテル専用のプライベートビーチを持ち、支配人の指導宜しく宿泊者へのサービスとして所有のモーターボートで湖畔一周サービス。 ジェットスキーやウイッシュ(ヨツト)での水遊びは最高当館だけのアクティブコース。野生リスも毎日顔を覗かせ宿泊者を歓迎して呉れる。
小生運転の送迎バスを使った周辺ガイドは皆楽しんで呉れた。 時には地元有力者接待にヘリコプターをチャーターし富士山を一回りし、東京の上空を眺める回遊をしていただき、ホテルでのもてなしには会長(丸山)&社長(武内)の評判は上がり顔は広がった。
だが経営はズブの素人経営。業績は駄目だったが当初から物好き成金を探し利鞘稼ぎの転売目的の遊び投機経営だったのでバブル崩壊と共に夢破れ破綻は早かった。 早い破綻は結構楽しむだけ楽しんで個人的損害はが少なかっただけ幸いした。
上の写真:バ-ベキュ-ガ-デンで楽しむギャル達
下の写真①フラミンゴの総合支配人:万代宏(キムヨンジャの現在ジェネラルマネ-ジャ.として活躍中)
②ご満悦な馬鹿男(左)(右)芸能評論家、加藤康一氏と著名な評論家伊藤先生と仲間達
昔の恋人(当時、青江三奈そっくり)が訪れ
湖畔を背景にマリンテラスで筆者と記念写真
河口湖畔に聳え立つ二千坪のホテル『フラミンゴ』